皆が知ってる「白衣の天使」には、裏の顔があった…⁉【オンナ今昔物語3】

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子供向け偉人伝の常連であるナイチンゲールの名前は、ほとんどの人が知っているでしょう。戦場で傷ついた兵士たちを、敵味方の区別なく看護する「白衣の天使」――彼女のイメージはおおむねこんなものでしょう。有名なクリミア戦争の時の活躍ですね。

しかし、クリミア戦争での活動はナイチンゲールの生涯のほんの一場面にすぎません。90年に及ぶ彼女の生涯をたどると、「優しい白衣の天使」とはほど遠い実像が見えてきます。

実像その1 現実主義の理系女子


フローレンス・ナイチンゲールは、1820年にイタリアのフィレンツェで生まれました。両親はイギリスの上流階級で、新婚旅行として数年かけてヨーロッパを回っていました。フローレンスはその旅の途中で生まれたのです。ナイチンゲール家は相当な資産家だったのですね。

何不自由ない生活をしていたナイチンゲールは、徐々に才能を発揮し始めます。語学や文学を吸収しただけでなく、数学にも夢中になったのです。彼女の数字・論理へのセンスは、後に統計を用いた病院改革に役立ちます。また、強い信仰心の持ち主でもあった彼女は、24歳の時に「病人の看護に人生を捧げよう」という決意を固めました。

当時のイギリスでは、上流階級の人は自宅で療養します。庶民の集まる病院は不衛生な場所で、看護婦は地位の低い職業とみなされていました。インテリの父は比較的理解を示したものの、母や姉をはじめとする家族は猛反対しました。

ナイチンゲールはいったん希望を取り下げますが、「現実的にどうすれば看護婦になれるか」を密かに考えていました。医学や病院に関する勉強を続ける一方、上流階級の娘という立場を生かし、政治家や慈善活動家などの間に人脈を築いていきます。

そのかいあって、ドイツで先進的な看護の訓練を受けることができました。十年近く布石を打った末、実家を出て療養所で看護婦の仕事ができるようになったのは、33歳になってからでした。

実像その2 クリミア戦争での本当の敵とは


ここで、ナイチンゲールに転機が訪れます。ロシアとトルコ(オスマン帝国)の争いにイギリスやフランスなどが介入し、クリミア戦争が始まったのです。

傷ついた兵士は、戦場の後方にある病院に運ばれます。しかし、着替えや替えのシーツなどもない不衛生な環境のため、伝染病が蔓延して悲惨な状況になっていました。死ぬほどの傷ではなくても、劣悪な環境で伝染病にかかって死ぬ兵士が非常に多かったのです。報道で惨状を知ったナイチンゲールは、看護婦団を率いて戦地に向かうことを志願します。

ナイチンゲールが赴任したのは、現在のトルコ領にあるスクタリの野戦病院です。しかし、彼女の主要な敵は戦傷や病気ではなく、陸軍の組織でした。軍医たちは女性たちの能力を軽視し、お役所的な規則を盾に看護婦たちの活用を拒否したのです。

しかし、ナイチンゲールは忍耐強く待ちました。日がたつにつれ傷病兵が増え、病院の衛生状態は悪化の一途をたどります。本国からの圧力もあり、医師たちはとうとう看護婦たちの出動を要請。ナイチンゲールは「相手が頭を下げる」状況を作り出し、病院で陣頭指揮をとるに至ったのです。

彼女は自ら傷病兵の看護にあたるだけでなく、夜中まで膨大なデスクワークをこなしました。本国に送る報告書や意見書の他、詳細な統計データの記録も彼女によって書かれました。ナイチンゲールは、兵士たちを死なせないために統計データを最大限活用したのです。

ナイチンゲールが最も重視したのは、何より病院の衛生管理でした。清掃や洗濯、換気の徹底。下着類やせっけんなどの物資の充実――スクタリの病院の死亡率は、42.7%から、わずか2.2%へと劇的に改善しました。

1856年にクリミア戦争は終結し、この頃にはナイチンゲールは国民的英雄となっていました。しかし、彼女は自分の仕事に満足していませんでした。

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