病気、大事故、夫の不倫…!たたみかける不幸をばねにして名作を生んだフリーダ・カーロの人生【オンナ今昔物語5】

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さまざまな逆境をバネに!


最近は、スマホなどで自撮りをする光景も普通になりました。自分で撮った写真を加工できるアプリもたくさんありますね。「自分の姿はかわいく見せたい」という女性の感覚は、ごく普通のものだと思います。

そういう感覚で見ると、メキシコの画家フリーダ・カーロの自画像はかなり個性的です。太い眉毛は左右が繋がっていますし、うっすらと口ひげが描かれているものさえあります。しかし、まっすぐな視線は強い意志を感じさせます。

フリーダはなぜ、こんな風変わりな自画像を多数残したのでしょうか。

「フリーダ・カーロ」


「フリーダ・カーロ」 提供:ALBUM/アフロ

病気と大事故。医師を目指したフリーダが絵を描き始めるまで


フリーダ・カーロは1907年、メキシコシティ近郊で生まれました。父ギエルモはドイツからの移民で、才能のある写真家でした。フリーダとは、ドイツ語で「平和」という意味です。6人姉妹の下から2人目でした。

フリーダは活発な少女でしたが、6歳の時に小児麻痺にかかり、9か月もの闘病を強いられました。小児麻痺の後遺症により、フリーダの右足は細いまま成長が止まってしまいます。この出来事は、幼いフリーダの心に深い傷を残しました。

この頃、彼女の支えになったのは父の存在でした。写真家であり、趣味で絵を描いていた父は、フリーダの芸術的センスに影響を与えたようです。

フリーダは、繊細で気難しい性格の少女に育ちましたが、父は彼女の賢さを評価していました。父は、15歳になったフリーダを、国立予科高等学校に入学させます。そこは国立大学の併設校で、中南米で最高の教育を施しているエリート校でした。生徒数2000人に対し、女子はフリーダを含めわずか35人。現代日本で娘に東大を目指させるより、はるかにハードルの高い決断をしたといえます。

学生時代のフリーダは、医者を目指して勉強しながら、情熱的な恋も経験するなど、充実した青春を送りました。また、悪友といっしょに教師にいたずらをしかけるなど、権威への反抗も見せていました。ある時、フリーダは悪ふざけを理由に退学処分を受けます。しかし、彼女はなんと文部大臣に面会を申し込み、処分は不当だと訴えました。大胆な行動のおかげで、フリーダは退学を免れたのです。

しかし1925年9月17日、18歳のフリーダの運命を暗転させる出来事が起きました。フリーダの乗っていたバスが路面電車に衝突し、彼女は瀕死の重傷を負いました。脊椎や骨盤などを骨折した上、鉄製の手すりがフリーダの下腹部に刺さり、子宮を貫通するという痛ましいものでした。

フリーダは奇跡的に一命をとりとめましたが、激痛に耐えながら3か月間もベッドの上で過ごさねばならなくなりました。回復後も、後遺症による痛みは生涯消えなかったといいます。

この事故によって、フリーダは医学の道を諦めざるをえなくなりました。そして、長い療養生活の間、苦痛と孤独を紛らわすため、フリーダは本格的に絵を描き始めたのです。

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