この家庭には亀裂がある。妻の絶望、愛人の希望/気がつけば地獄(8)

#くらし   
サイレンの音と人だかり…どうしたんだろう

気がつけば地獄 8話

SNS上で仲良くなった相手は、夫の愛人でした。

パート勤めの主婦・紗衣の元にやってきた荷物。それは夫に内緒で購入した美顔器と入れ替わって届いてしまったものだった。その誤配達を企んだのは夫の愛人である夏希。夏希はその出来事をきっかけにSNS上で紗衣を発見し、身元を隠して交流を深め…。

正体を隠しながら距離を縮めていく2人の女性、そして変わりゆく夫婦関係…衝撃展開が繰り広げられるサスペンス『気がつけば地獄』から、10話までを連載でお送りします。今回は第8回です。

※本作品は岡部えつ著の書籍『気がつけば地獄』から一部抜粋・編集した無料試し読み連載です

 


ここまでのあらすじ

紗衣は美顔器を購入するが、別の住所宛の荷物と入れ替わって届いてしまう。これは、紗衣の夫・祐一と恋仲にある、宅配会社勤務の夏希の企みだった。紗衣が、届いた荷物の送り主・田中商事に連絡すると、「荷物を引き取りに行く」と威圧的に迫られてしまう。想定外のその状況を、紗衣のSNS で知った夏希は、身元を伏せてDM で相談に乗ることに。数日後、紗衣の自宅ポストには荷物の返却を求める1枚の紙が。SNS 内検索をすると、同様の紙が複数の部屋宛に投函されていることが判明した。

【第8回 疑惑と希望】

『話してたら、きっと叱られて大変だったと思う』などと、つい書いてしまった。

 こんなふうに夫の愚痴を他人にこぼすのは、おそらく結婚以来初めてのことだ。見栄を張っていたわけではない。ただ、わたしはずっと自分は幸せなのだと思っていたくて、そのためには、人からもそう思われていなければならなかった。

 それに対して、ナナも自分の婚約者への不満を書いて寄越した。やっぱり頭のいい子だ。しかもそれは、パートナーからSNSの使用を禁じられているという、わたしの不満と重なる内容だった。距離がぐんと縮まったようで嬉しくなり、すぐに返信を書いた。

『うちの夫もそうなの! だからわたしも内緒でやってる。 ナナちゃんは、結婚前から秘密を持っていることが気になっているんだね。でも大丈夫よ。結婚したあとだって、意見の合わないことなんて次々に出てくるから。そのたびに話し合いをしていたら、身が持たないでしょ。家庭を丸く収めていくためには、秘密もありです(笑)』

 二度読み返して、送信ボタンを押そうとしていた指を止めた。なんだか先輩ぶっていて、上から目線のような気がする。指を削除ボタンに移動させ、後ろから文字を大方削除してから、再び文字を打ち込んだ。

『うちの夫もそうなの! だからわたしも内緒でやってる。 確かに、夫に秘密を持っていることは少しうしろめたいけど、喧嘩をするよりもいいと思うの。しょせん他人同士、何もかもわかり合えたり、許し合えたりはできないからね。秘密のおかげで、うちは夫婦円満です(笑)』

 三度読み返し、送信する。それから祐一に、『もう大丈夫です』とメールした。

 先ほどまで自信をなくして落ち込んでいたのが嘘のように、晴れ晴れとした気分だった。落ち着いてよく考え、様々な可能性について吟味すれば、ちゃんと自分で解決できるのだ。実際はナナが考えて助けてくれたのだったが、自分の手柄のように思えた。困るとすぐに祐一を頼ろうとしてしまうのは、そうすることに慣れてしまったからだ。本来の自分を取り戻せば、わたしだって自力で困難を乗り越えることくらいできる。

 マンションの入口ですれ違った男たちを思い出すと今でもぞっとするが、もう怯えているだけではない。一緒に勇気も湧いている。相談相手がいるからだ。

 ナナに会いたいと思った。会って、胸の中でつかえているものを、全部吐き出してしまいたいと思った。

 スマホが震えたので手に取ると、ナナからの返信だった。

『そっか、なるほど~。サニーさん、さすが大人です! わたしはなんていうか、自分が秘密を持ってしまったら、相手もわたしに秘密を持つんじゃないかと思ってしまって、それが怖かったんです。たとえば、別の女の人とつき合っちゃうとか……。馬鹿ですよね。 でも、サニーさんたちみたいな仲が良さそうなご夫婦でも、秘密があると知って、安心しました(笑)』

 背中がひやっとし、思わず身震いした瞬間、玄関から鍵を開ける音がした。慌ててスマホを閉じ、そばにあった雑誌を広げる。

「あれ、起きてたの?」

「お帰りなさい」

「風呂入ってくるわ」

 わたしが送ったメールについては何も訊ねることなく、祐一はリビングから出ていった。

『別の女の人とつき合っちゃうとか……』

 頭にナナのメールの一文が浮かび、ぐるぐると回る。

 疑いを持ったのは、いつ頃からだろうか。帰りが遅いのは、結婚当初から変わらない。服の趣味が変わるとか、出張が増えるとか、香水の匂いをさせて帰るとか、そういった不審な行動もない。急に冷たくなったわけでも優しくなったわけでもない。しかし、感じた瞬間があったのだ。

 証拠はなかったが、あの時、妻として問いただしてもよかったと思う。今だって、そうしてもいいはずだ。だが、そんな気になれない。遅くなってもこうして毎日帰宅し、週末は家族との時間を大事にしているのだから、そういう相手がいようがいまいが、彼には今のところ、家庭を壊す気はないのだ。ならばわたしはどんな覚悟で夫を問いただすつもりなのか、自問すると気持ちがしぼんでしまう。向き合うのが面倒くさい。

 わたしが持っているのと同じくらい、祐一にも何か不満があるのかもしれない。言いたいこともあるのかもしれない。そして、秘密もきっとある。しかし彼も口をつぐんでいる。そうして維持している「夫婦円満」を、わたしは自らの手で崩せない。

 * * *

 彼女を知るまで、わたしはずっと祐くんの奥さんのことを、すごい美人で頭も良くて服のセンスも素敵な非の打ち所のない女性に決まってる、と勝手に想像していた。その想像は、祐くんとの距離が縮まれば縮まるほど、わたしをものすごく苦しめた。

 苦しみ過ぎておかしくなったせいで、彼の家をつきとめ、宅配会社に入って奥さんに近づいた。そのあと、身元を隠してツイッターでやりとりまで始めた。

 そこで知ったのは、祐くんの奥さんは美人でもなければ聡明でもなく、どちらかというと鈍くさくて、全然魅力的じゃないということだった。そして、そんな奥さんを祐くんは心から愛していて、別れる気なんか全くないということだった。それが、ますますわたしを苦しめている。

 だから正直、この展開にはびっくりだ。彼女はぼやかして書いているけれど、DMをよく読めば、この夫婦には小さな亀裂があることがわかる。いや、案外小さくないのかも。うまくいっていると思っているのは祐くんの方だけ、という可能性だってある。

 そうだとしたら……そうだとしたら!

 これまで何度も何度も考えては打ち消してきた、わたしと祐くんの未来を、もう一度考えずにはいられない。考えたっていいはずだ。わたしと祐くんだって、かけがえのない時間をたくさん共有してきたんだもの。

 翌日、宅配の勤務を終えたあと、久し振りに、祐くんのマンションの近くまで歩いて行ってみることにした。奥さんにはああ言ったけれど、彼女に直接脅しをかけようとしてきた田中商事とかいう怪しい会社が、やっぱり気にかかる。彼らがうろちょろしている限り、奥さんが祐くんに誤配達のことを話してしまうかもしれないという心配が、どうしても消えない。

 夕暮れ時だったけれどサングラスをかけ、髪でなるべく顔を覆って、会社を出た。駅の周囲には小さなレストランや居酒屋、雑貨店などもあるけれど、少し歩くとすぐに住宅街になる。二車線道路の片側にはマンションが建ち並び、反対側は一軒家が続く。マンション側の歩道を進むとまもなく、広い駐輪場が見えてきた。その先にある鍼灸院の看板の角を曲がったところが、祐くんの家族が住むマンションだった。

 その時、背後からサイレンを鳴らしながらパトカーが走ってきて、わたしを追い抜き、鍼灸院の看板の角を曲がった。サイレンが止んで、同時に人のざわめきが聞こえてきた。通り過ぎながら、赤いライトが瞬くように辺りを照らしている路地を覗くと、パトカーは祐くんのマンションの前に停まり、周囲には人だかりができていた。

 まだ何も想像していないのに、膝が震えだして歩けなくなった。

著=岡部えつ/『気がつけば地獄』(KADOKAWA)


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