学校の「掃除の時間」 vol.31「消えない家事」 山崎ナオコーラのエッセイ

#くらし   
学校の「掃除の時間」 vol.31


 学校に「掃除の時間」があるのは、世界共通ではないという。
多くの国ではプロが校内の清掃を行い、子どもは勉学に集中する。
日本のように教育目的で掃除を子ども自身に毎日行わせる国は珍しいらしい。

 私は、「掃除の時間」が嫌いだった。
集団行動が苦手なので、周囲と協力して掃除を進めるのはひたすら苦痛だった。
リーダー格の子や先生からモンクを言われないように気を遣い、やっているフリをしているだけの時間だった。
真面目にやらなかったので、「掃除の時間」が今の自分に役立っている感じはしない。
掃除はまったく上う手まくならなかった。
物を大事にする気持ちが育まれたかどうかもあやしい。
常に野心や不満と共に生きている私なので、心が清められてもいない。

 ただ、今思うのは、掃除を仕事としてのみ捉えない考え方というのは、やっぱり面白かったな、ということだ。

 家事というのは、「労働の対価として報酬を得る」と割り切ることに馴染まない部分がある。
掃除は、「きれいにする」という目的を達成するだけのものではない。
何かしらキラリとしたものが掃除という行為の中には隠されているのではないか。
多くの人がそういうことを考えてきた。
だから、掃除文化というものが生まれたわけだ。

 安野モヨコさんによる『シュガシュガルーン』という少女マンガがある。
魔界からやって来た魔女のショコラが人間界で修行をする。
ショコラは自分の部屋を散らかしているので、学校の友人たちが遊びに来ることになって焦る。
それで、「おそうじふきん」という魔法のアイテムで簡単にかたづけを済ませようとたくらむのだが、紆う余曲折があり、結局はそれを使わず、自分でかたづけを行う。
「あの『ふきん』は、はじめにモノの名と場所をぜんぶ刺しゅうしないと使えない」と教官のキャラから教えられ、自分でかたづけをしたことを褒められる。
魔法が使えるのに、掃除は自分でするのだ。

 ディズニーの『眠れる森の美女』では、三人の妖精たちが、魔法を使って掃除をしていた。
モップやホウキが歩く姿はキュートで、魔法の掃除だってとても素敵だった。

 私は精神論が苦手だ。
掃除が心をきれいにする、といった言葉も好きじゃない。
でも、「楽に掃除を済ませるのではなく、自分で掃除をすることに意味がある」という考え方は面白いな、と感じる。

 魔法で行う掃除だってもちろん面白い。
別に、みんながみんな、自分で掃除をする必要はない。
魔法で済ませる人、お金で解決する人、分業で社会を盛り上げる人、掃除との多様な関わり方のすべてを尊重して、私たちは社会を作っている。

 それらの価値観の中のひとつとして、「自分で行う掃除には格別の何かがある」というものがあり、それも大事にしたい、と思う。

 家事に対して、「時短」「家電」というアプローチだけでなく、「人間に何かキラリとしたものを与えてくれ」「人間らしさを培わせてくれ」という気持ちで近づいてみたい。

 仕事がAIに取って代わられて、ベーシックインカムで生活が行われ、人人が思索をして多くの時間を過ごすことになる未来になっても家事が残っていく、と信じている身としては、作業だけに収まらない家事の大きさを見てみたい。

 ついでに、性別によって家事従事者と仕事従事者を分けて、家事従事者をバカにしてきた人たちをギャフンと言わせたい。
「やっぱり、オレも家事をしたい」「家事っていいなあ。有意義だなあ」「家事のおかげで成長したよ」と言わせたい。

 学校の「掃除の時間」に成長しなかった私が言うのもなんだが、やっぱり、掃除という行為の中にあるキラリとしたものを信じてみたいのだ。

<レタスクラブ’20 7月号より>

文=山崎ナオコーラ イラスト=ちえちひろ デザイン/monostore

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