このとき、お母さんは48歳。
幸せな毎日に暗雲が立ち込めはじめたのです。
最初に美齊津さんがお母さんの異変を感じたのは、一緒に近所のショッピングセンターに行ったときのことでした。おもちゃ売り場を見にいった美齊津さんを置いてお母さんが帰宅してしまったのです。
それから少し経ち、美齊津さんが小学校から帰ると、お父さんの会社で経理の仕事をしているはずのお母さんが家にいて、一緒に過ごす時間が増えたことを喜んだそうです。でも本当は、この頃すでに仕事が続けられないほど病状が進んでいて、辞めざるをえなかったのかもしれません。
ある日、「お母さん」が鏡に向かってブツブツ話をしているところを目撃した美齊津さん。独り言は次第に大きくなり「あなたが悪いんでしょ!」「バカなこと言わないで!」とエスカレート。
徐々に進行してくお母さんの病気は、二人の生活から「当たり前」を奪い去っていきます。
料理の仕方がわからなくなりボヤ騒ぎをおこしたお母さん。
朝美齊津さんを起こすこと。毎日の入浴の習慣や身だしなみを整えること。当たり前にできていたことが、一つひとつできなくなっていきます。
以前は身なりに気をつかいお化粧もきちんとしていたお母さんの洋服は汚れたまま。それを友達にも指摘され、なんとも言えない恥ずかしさがこみあげてきます。
変わってしまったお母さんへの不安や恐怖は、誰にも明かすことはできませんでした。
次第に家の中は荒れ始めていきました。廊下には不要なものが積み上げられ、買い置きのお菓子は古くなってしけっています。
1日中鏡の前で独り言をつぶやくお母さんから逃げるように、外へ出て友達と遊んでいました。帰りたくない気持ちを抱えたまま帰宅した彼の目に飛び込んできた光景は…
前回起こしたぼや騒ぎが原因で料理を禁止されていたものの、お腹を空かせて帰ってくるわが子のためと思ったのでしょう…二度目のぼや騒ぎです。
幸い、今回の火事も台所の一角を焦がす程度で、お母さんのケガも軽かったのですが、今後お母さんをどう扱えばいいのか誰にも分からなくなっていたといいます。
美齊津さんには当時、高校生のお兄さんがいました。
お姉さんもいましたが、すでに嫁いでいて、小さな子どもが3人います。
そういった理由から、放課後にお母さんの面倒を見ることが、小学生の美齊津さんの日常になっていきました。
そして美齊津さんは中学生に。お兄さんが遠方の大学へ進学したり、美齊津さんもお母さんの介護のために叔母の家へ同居のため引っ越したり…。そんな日々の中、お母さんの病状は悪化するばかり。
「危険だから」という理由で台所への出入りを禁じられ、お母さんは不仲の叔母の家に何もせずいることが苦痛だったのかもしれません。
前の家に行くけれども、家の中には入れずに立ち往生する…ということを何度も繰り返していました。
前の家の前で立ちすくむお母さんを迎えに行った帰り道、話そうとするものの、会話は成り立ちません。支離滅裂なことを言って、泣いたりわめいたり…。困り果てやっとの思いで帰宅するのが常でした。
さらに朝、学校へと向かう美齊津さんを裸足で追ってきたうえに、家まで送り届けても美齊津さんをつかんで離さなかったり。友達からも奇異な目で見られ、恥ずかしさと困惑でどうしたらいいか分からなくなってしまいます。
学校から帰宅すると、またいなくなってしまったお母さんを探す毎日…。
そんなある日のこと、授業中に級友から告げられ窓の外に目をむけると…。
お母さんが汚れた下着を手洗いし、ベランダに干していたのでした。
家へ帰ればいなくなった母親を連れ戻しにいく毎日。
病気のせいだと分かっているのに、お母さんを責めたくなってしまう…。言葉にならない感情がこみあげてくるのでした。
そんな気持ちを一つ屋根の下に暮らす叔母さんとも、家を出てしまったお兄さんとも、育児に忙しいお姉さんとも共有できなかったのでした…。
水産会社を営んでいたお父さんもまた、早朝から市場に行き、夜も遅くまで働いていました。介護するかたわら、社長業の重責と息子2人の教育費、そして叔母さんの生活費も背負って、ギリギリで踏ん張っていたのでしょう。
お母さんが認知症になって4年がたち、美齊津さんは高校生になりました。お母さんの病状は無情にも進行し、排泄物を洗面台に流そうとするように。詰まってしまった排泄物を処理するのが、日課のようになっていました。
お母さんはついに入院することが決まりました。
家族でお母さんの入院先に面会に行くと、そこにいたのは変わり果てた姿になっていたお母さんでした。
美齊津さんの介護の日々は終わりを迎えたのです。
大好きなお母さんが…次第に病状が進む様子を目の当たりにして
大好きだったお母さんの病状が進んでいくのを目の当たりにするのはとても辛かったことと思います。ここからは、美齊津さんお話をうかがっていきます。
──若年性認知症を発症する前のお母様はどんな方だったのでしょうか。
美齊津さん:母は誰にでも優しく、いつもニコニコしている明るい人でした。大きな声でよく笑い、その場の雰囲気をパッと明るくする人で、地区の婦人会長もやったりと活発な人でした。若い頃は100m走と走り幅跳びの国体選手。年を重ねても体は細身の筋肉質で、よく私に腕の力こぶを見せて「お母さんの力こぶ凄いでしょ」と言ってケラケラと笑っていました。母は末っ子の私を特にかわいがり、私が小学生になっても「やっちゃん、抱っこさせて」と母の方からせがんできて、何度も力一杯抱きしめてもらった記憶があります。
母はおおらかでとても穏やかな人でした。私は一度も母から怒られた記憶がありません。常に私の事を肯定してくれました。なので母は常に私の味方であり私の一部という感覚でした。
家族の中では、ワンマンな父にニコニコと従うタイプで、両親が喧嘩をしたところは見たことがありません。父と母は商売をしていたので、母は毎日帰りが19時半過ぎでした。それまで私と兄は2人で過ごしていたのですが、母が帰ってくると、家の中が日が差したように明るくなり、私も兄もとても嬉しい気持ちになりました。
──お母様が元気だった頃、忘れられない「家族の風景」はありますか?
美齊津さん:私が小学校低学年の時に、家族全員でテレビの前でドリフを見て大笑いした時のことが印象に残っています。食事が終わり、皆でドリフを見ていたのですが、その時母だけは一人台所で洗い物をしていました。私は母と一緒にドリフを見たくて、洗い物をしている母を呼びに行き、母の手を引いて居間まで連れてきて父の横に座らせました。すると母はドリフのコントを見て、誰よりも大きな声で大笑いを始めたのでした。そんな父と母が声を出して笑っている姿が子供心にとても嬉しくて、母の膝の上に座って一緒に笑いながら幸せな気分になりました。
美齊津さん:もうひとつは私が小学校低学年の頃の話です。
地区の公民館で新年会があり、母に連れられて一緒に参加したことがありました。そこは、広いお座敷にお膳が並べられて宴会場のようになっていました。そのうちカラオケ大会が始まると、母は嬉しそうに会場の前方に行きマイクを握ったのです。歌った曲は「昭和枯れすすき」。子ども心に「暗い曲だなぁ」と思って聴いていたのですが、そんなことよりももっと気になったことがありました。それは母が音痴過ぎることでした。子どもの私もすぐ分かるくらい音程も滅茶苦茶なのですが、それよりももっと気になったのは伴奏から歌がどんどん遅れていった事でした。
それでもお構いなしに悦に入って歌っていた母。やがて曲が全て終わり伴奏も終わって静かになったのですが、なぜか歌詞はまだ残っていました。それでも母は伴奏もない中で、一人アカペラで歌い続けていたのですが、そこまできてやっと母は自分の歌がおかしいことに気が付き、はたと歌うのを止めると突然皆の前で大笑いを始めたのです。すると母の笑いにつられて会場も大爆笑になりました。私も笑いました。今思えば「昭和枯れすすき」であれだけ笑いを取れるのは母だけではなかったかと思います。
美齊津さん:あと思い出すのは…母がよく綿棒で耳掃除をしてくれたことです。
母の膝枕で耳掃除をしてもらうのが気持ちよくて大好きでした。母が耳掃除をしながら「やっちゃんの耳垢がやらかいのは、お母さんと一緒やね」とよく言っていました。
小学1、2年の頃だと思いますが、夜寝る時は父と母の布団の間に私の布団を敷いて私は寝ていました。父は毎朝4時頃になると市場に出かけるので、その準備で父と母はバタバタと忙しく動き回るので、私も一緒に目が覚めてしまうのですが、父が出かけて静かになった後は、いつも母が自分の布団に私を招き入れて添い寝をしてくれていました。母が背中をさすってくれて安心して眠れたことを覚えています。
──「母が鏡に向かって会話するようになった」という描写がありました。その時の状況を改めて詳しく教えてください。
美齊津さん:母の独り言が始まったのは私が小学5、6年の頃だったと思います。独り言というよりは、鏡に映る自分を相手に会話をしていた、が正しい表現かもしれません。
「○○せなアカンやろ」とか「そんなこと言ったって、仕方ないんよ」など、相手に何かを言い聞かせる様な口調で話をすることが多く、時々興奮してくると、怒りだして「なんで、そんなことするの!」などと大声をだすこともありました。
最初は鏡相手に会話を始める母を見るのが何だか怖くて、母に話しかけたり、母の手を引いて鏡の前から移動させて辞めさせていたのですが、すぐに母は鏡の前に戻って会話を再開してしまうんです。もう私にはどうすることもできないことが分かってきました。
そのうち私は母の独り言が始まると、母の後姿を見ながら部屋の隅でメソメソ泣いていました。
──認知症が進行していく中、偶然電話をとったお母様が以前と変わらぬ調子で受け答えをし、美齊津さんが「元に戻った!?」と思ったというエピソードも描かれていました。ものすごく切なくなりました…。
美齊津さん:心のどこかで、いつも「夢であって欲しい、いや夢にちがいない。」「お母さんは魔法の様なものをかけられていて、何かのきっかけでお母さんは元に戻るはずだ」と思っていました。だから電話で普通に受け答えしている母を見た時、「この電話が切っ掛けでお母さんが治るかもしれない!」と瞬間的に思って飛び上がるほど嬉しくなったことをよく覚えています。
──お母様自身がご自分の変化について気づいたり、不安を吐露することはあったのでしょうか。
美齊津さん:母は私に不安を吐露することはありませんでした。
思えば、母は分からないことだらけだったと思うのですが、そのことを誰かに聞くと、誰もが「なに変な事いってる!」「アホか!」などと完全否定されて怒鳴られてばかりだったので、周りの人が怖くてたまらなかったと思います。だから、私が中学生の頃、母はいつも眉間にしわを寄せて切羽詰まったような不安げな表情をしていました。
──お父様もかなりショックを受けられたのではないかと思うのですが…。
美齊津さん:母が病気になる前、父はよく母の事を「ちーこ」と大声で呼び寄せては、2人で色々と笑いながら仕事の話をしていました。仲の良い夫婦だったと思います。母が発症しても、父は私に母の病気の事を殆ど話しませんでした。
父は決して人前で弱音を吐かない人で、母の病気の事はとにかく自分で良い医者を見つけて何とかしようと思っていたのだと思います。
父の事だから子どもには心配かけたくないという思いで母の事を語らなかったのだと思いますが、子どもの様子までは気が回らなかったようです。
──お兄様はあまり関わらないようにしていたと著書にありました。弟さんの立場としてはどのように感じていたのでしょうか。
美齊津さん:兄の事情は著書では描き切れなかったのですが、兄は小さいころから両親に「大学なんか行かずに店を継げ」と言われ続けてきたので、それが嫌でたまらず、何とか勉強して大学進学を目指していました。
よく兄と二人でいる時に、兄は私のことを「おまえは自由でいいな」と羨ましがっていました。
兄が家にいた頃は母の症状は比較的軽度で、時間的に余裕がある私が手伝えば生活が回っていたため、兄が母の世話よりも受験勉強を優先することは無理もない事でした。
恐らく兄も、父からは母の病名や症状など何も聞かされていなかったため、本当は不安だらけだったと思います。兄も自分の人生を自分で決める為に必死だったのです。
──そのような状況の中、ひとりでお母さまが変わっていく様子を受け止めなければいけなかったということですよね。
美齊津さん:学校から帰ってきたら母の排泄物が洗面台のパイプに詰まっていて、それを掻き出していた時、母と自分だけが世の中から取り残されて見捨てられてしまったような気がして、惨めで涙が止まらなくなったこともありました。
──しばらくしてお母様が治療のため入院されて。美齊津さんの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。
美齊津さん:私が面会に行っても、母からは「家族に出会えた喜び」や「家族から離れて暮らす悲しみ」などの感情は一切感じられず、私は寂しさや虚しさしか感じませんでした。
日常生活においては、母が居なくなったことで「もう母の事を隠しながら生きていかなくていい」と、心が軽くなったのは事実です。
「もう母の事は忘れて暮らしたい」と思い、なるべく母の事は考えないようにして生活していました。同時に「どうせ人生なんて理不尽なんだ」「どうせ僕は神様から見放された運命なんだ」という投げやりな気持ちを感じていました。
ヤングケアラーに必要な支援とは
──「誰にも悩みを話せず、自分の中でその悩みを増幅させてしまうことで 非常にネガティブな人生観や社会観を持っていた」という美齊津さんですが、ヤングケアラーのために私たちができることはどんなことがあると思われますか?
美齊津さん:私の中でヤングケアラーは、「地面に掘られた深い穴の底で膝を抱えてうずくまっている子ども」というイメージです。どこにも逃げ場はない。でも人に知られるのが怖くて、穴から出ようとも、声をあげて助けを求めようともしない…。世間の人たちは普段は地面に穴が開いていることに気がついていません。
私たちができることは、まず下を向いてその穴の存在に気づき、そしてその穴を覗き込む人を一人でも多く増やすことだと思います。そうすれば気づいてもらえる子どもが増えます。
今も声を上げずにじっと耐えている沢山のヤングケアラーが身近にいる事を知っていただき、もしそのような子どもがいたら、挨拶だけでもいいので声をかけて、彼らの「味方」になってください。彼らが安心してSOSを求めることができる環境を作ることが大切だと考えています。
──いま辛い現実に直面しているヤングケアラーの皆さんに、経験者として伝えたいことはどんなことでしょうか。
美齊津さん:ヤングケアラーの中には、子どもの頃の私のように、孤独の中で希望を持てなくなってしまう子が大勢います。でも、将来ケアの役割から解放されたときには、再び自分の足で前進していける強さを持ってほしい。そのためには、とにかく今この時を、すべてを諦めることなく希望を持ち続けながら何とか乗り切ることが大事です。
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美齊津さんの実体験がもとになったこの漫画の数々のエピソードは、読んでいるだけで胸が苦しくなるような出来事ばかりでした。
当時と比べれば、認知症という病気やヤングケアラーの方々への理解は進んでいるかもしれません。
でもいまもなお、孤独の中で辛い思いをしている方々はたくさんいるのだと思います。当事者にならないと見えづらいこうした現実に、漫画を通して少し触れることができました。
もしかしたら自分の身の回りにもヤングケアラーとして苦しんでいる子どもがいるかもしれません。彼らが安心してSOSを求め、将来に希望を持って前を向けるように、私たちも努力をして環境を整えていかなければならないと感じました。
文=レタスクラブ編集部MM