おばさんの家へ行こう。誰もいない町に恐怖を感じながら妹と必死に歩き続けて/わたくし96歳が語る 16歳の夏(7)

1945年8月10日夕方

原爆投下5時間前。工場へ向かう私が背中で聞いた母の言葉「これが最後かも」/わたくし96歳が語る 16歳の夏(1)
『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』 7話【全8話】


戦後80年。「あの夏」を、もう誰にも経験させたくない。

1945年8月9日、16歳のときに長崎で被爆し、原子爆弾によって両親と3人の弟を亡くした森田富美子さん。あまりにも悲惨な体験だったがゆえに、長い間、口を閉ざしてきましたが、「二度と悲劇を繰り返させない」という思いから90歳を機に戦争体験、被爆体験を語ることを決意。Xアカウント「わたくし96歳」の投稿は大きな反響を呼び、フォロワーは8.5万人にのぼります。

「カタリベ(語り部)」になろうと決意した富美子さんと、その言葉を紡いだ長女・京子さん。96歳が語る戦争の記憶とは——。

富美子さんは女学生のとき、学徒動員にかり出されていた工場で被爆します。「きっと家族は大丈夫」わずかな希望を胸に自宅を目指しますが、そこで目にしたのは多くの負傷者と死体の山。我が家どころか、町は影も形もなくなっていました。町の防空壕に一人避難していた妹と奇跡的に再会しますが、ほかの家族は全員亡くなったことを知ります。

※本記事は森田富美子、森田京子著の書籍『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』から一部抜粋・編集しました。


おばさんの家を目指して 1945年8月10日夕方 東小島到着

生き残った子供たちに別れを告げ、私と妹は歩き出しました。戦時中は、誰もが左胸にスマートフォンの半分くらいの大きさの名札を縫い付けていました。私たちの名札には、住んでいた「駒場町(こまばちょう)」ではなく、「東小島(ひがしこしま)」と書いてありました。そこは、おばさんの家の住所です。おとうさんは6人きょうだいの長男で、おばさんは上から4番目の長女でした。おとうさんとおかあさんの「いざという時は東小島へ行け」という声が聞こえた気がしました。両親が一番信頼していたのがおばさん夫婦だったのです。私たちは顔を見合わせ「東小島に行こう」と言い、歩き出しました。

我が家は簗橋(やなばし)を渡ってすぐのところでしたが、橋は渡らず、浦上川沿いに南へと歩き始めました。数えきれない死体と負傷者の中をただ黙って歩きました。途中で稲佐橋(いなさばし)を渡り、長崎駅まで来ました。ここまで3キロです。また南に歩きました。丸山、思案橋を通って、東小島の正覚寺(しょうかくじ)を目指します。正覚寺からおばさんの家はすぐです。

しかし、丸山あたりに来ると、死体がなくなり、負傷者もいなくなりました。それどころか、人ひとり、犬1匹、猫1匹いません。底知れない恐怖が襲ってきました。無人の町は言いようのない不気味さだけを漂わせています。私は心の中で「正覚寺、正覚寺、正覚寺を過ぎれば、おばさんがいる」そう呪文のように繰り返していました。

同じ恐怖の中にいた妹がたまりかねて言いました。
「おばさんたち、おるやろか(いるだろうか)」

それこそ私が必死で頭の中から振り払っている言葉でした。繋いだ手を強く握りしめました。そしてまた誰もいない町、誰もいない空っぽの家と家の間を歩いていきました。

そして、ついに正覚寺が見えました。近くの家の中に人の気配を感じました。その気配は進むにつれ次第に増えていきます。「もうすぐ、あと少し」自分を勇気づけながら、また繋いだ手に力を込めました。おばさんの家に上がる細い石段の下に来ました。「ここを上がると」と、石段を見上げました。

東小島到着


いた! 見上げた先におばさんが、おじさんが、そして心配して集まっていた近所の人たちがいたのです。歓声があがりました。皆が私たち2人を見て歓声をあげたのです。

「良かった、よう来た」
おばさんとおじさんが泣いて喜んでくれました。

著=森田富美子、森田京子/『わたくし96歳が語る16歳の夏~1945年8月9日~』

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