剥がれ落ちたペディキュアもおばあちゃんのはだかも。すべてが美しい昼下がりの銭湯/夢みるかかとにご飯つぶ(3)

  慣らし保育の時間、銭湯での光景

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『夢みるかかとにご飯つぶ』3話【全5話】


母になっても、四十になっても、まだ「何者か」になりたいんだ。私に期待していたいんだ…。

「好書好日」(朝日新聞ブックサイト)の連載、「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」が話題となった、ライター・清繭子さんのエッセイ『夢みるかかとにご飯つぶ』(幻冬舎刊)。
何者かになりたいと願い、小説家を目指して試行錯誤する様子を赤裸々に綴った、心に沁みるエッセイです。
このエッセイから「おばあちゃんのはだか」のエピソードをお届けします。

※本記事は清繭子著の書籍『夢みるかかとにご飯つぶ』(幻冬舎刊)から一部抜粋・編集しました。


おばあちゃんのはだか


T湯の天井はフラミンゴピンクのミルクがけだ。タイルもピンクに揃えてある。男湯に縁側と庭園があることで有名で、水曜日だけ男女入れ替えになる。

慣らし保育の水曜日、十五時開湯に合わせて行ってみると、すでにおばあちゃんたちが洗い場でかぽん、ざぶん、やっている。庭園に向いた大きな窓から初夏の日差しが降り注ぎ、おばあちゃんたちのはだかをきれいに照らしていた。庭園に面しているのは日替わり湯が入る浴槽で今日はりんご湯だった。紅玉色のそれに浸かりながら、おばあちゃんたちを眺める。

昔、眺めたときには、ウゲェーあんなふうになるのかよ、と思ったのに、今日はたっぷりと垂れ下がったお尻や、窪んだ背骨や、たわんだ腰や削げた胸が、かわいく思える。実際、椅子に乗っかったお尻は昨夜お風呂に入れたうちの赤ん坊のお尻にそっくりだ。桃色に染められて、ふよふよとやわらかく、なにものにも抗わない。かわいいなぁ、きれいだなぁ、と思うのは、私が年をとったからなのか、昼間の光の下で見るからなのか、フラミンゴピンクのミルクがけのレフ板効果があるからか、わからない。なんにせよ、いい光景だ。

おばあちゃんがおばあちゃんを洗っている。背中をゴシゴシとよく絞った布で洗っている。

洗われた方は、悪いわねぇ、なんて言っている。二人は姉妹でも親子でもなく、ご近所さんなんだろう。友だちのはだかを洗ってあげる──。すごいなぁ。人生でいろんなことにぶち当たるたびに、ぱらぱらと殻が剥がれていったんだろう。「あり」なことが増えていったんだろう。人を許し、自分を許し、時間を許してきたんだろう。

おばあちゃんのはだかは収束する美しさではない。とめどなく拡がっていく美しさだ。

と、そこに私と同じくらいのおかあさんと三歳くらいの女の子が入ってきた。女の子がちゃぷんと浴槽に浸かっては、「あついー!」とすぐ出てしまうので、おかあさんはちっとも肩まで浸かれない。小さい桃色の体がスーパーボールのようにあっちこっちに行くので、あらあらとみんな目を細めている。こういうとき、おかあさんは誰かに怒られやしないかと必要以上に子どもを叱ってしまう。その気持ちがわかるから、歴代の女性たちはみな、「誰も怒っていませんよ、私たちはほほ笑ましくあなたとお子さんを眺めているだけですよ」ということをその人に届けようと、一生懸命目を細める。天気のいい昼下がりという状況も手伝ってか、今回はうまくおかあさんにも伝わったように思う。

女の子ははだかんぼで歩いているうちに、少しは冷えを感じたのか、やっとりんご湯に入ってくる。おかあさんと目が合って、私はお疲れさまの気持ちを込めて「かわいいですねぇ」と言う。「かわいいわよねぇ」とおばあちゃんも言う。おかあさんは嬉しそうに会釈する。彼女がやっと肩まで浸かれたことに私もおばあちゃんもほっとする。彼女が浴槽へ足を差し入れたとき、その爪のペディキュアが、塗ってないのと同じくらいにはがれ落ちているのが見えた。鯉の泳いだあとの波立ちくらい微かに、赤がひと刷毛残っているきりだった。

わかるなぁ。きっと何か月も前に、本当に久しぶりにペディキュアを塗ったのだろう。子どもがいるときだと乾く間もなくめちゃめちゃにされるので、寝静まったあとこっそりと塗ったのだろう。サンダルを履くとき、子どもをお風呂に入れるとき、その真っ赤な爪がちらちら見えて、こっそり悦に入ったのだろう。あら、独身の娘さんのようだわって。だけどそれもあっという間にスーパーボールみたいな子どもを追いかける日々に紛れて、今は名残りだけそこにある。

私はこっそり私の足の指も見る。ブルーグレーのペディキュアがやっぱり同じように、ひと刷毛残っているきりだった。だけどねえ、おかあさん。これも私たちの美しさのひとつだよねえ。おばあちゃんたちのとめどなく拡がり、こぼれていく美しさの中にもきっと含まれている、美しい日々の痕跡。
さっきから取り留めもなく考えごとをしている。考えごとをするなんてどのくらいぶりだろう。私はこうやって、考えごとがしたかったんだなあ。

お風呂上がりに縁側でラムネソーダを飲んだ。迷って服を着たけど、あとからおばあちゃんがバスタオル一枚で出てきた。まだまだ修行が足りないな、と思ったら、「そうよ」と笑うように風鈴が鳴った。

著=清繭子/『夢みるかかとにご飯つぶ』(幻冬舎刊)

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