煤(すす)と血だけになった両親と弟を体にすりこんだ。16歳の少女の被爆経験

『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』より

 戦後80年を迎える今、一人の女性が重い口を開きました。森田富美子さん、96歳。1945年8月9日、16歳だった彼女は長崎で原爆投下を経験しました。両親と弟たちの焼け焦げた亡きがらをひとりで弔った後、富美子さんは煤(すす)と血で真っ黒になった両手を見つめ、「私に残されたのは、これだけ」と思ったといいます。その手をこすり合わせ、黒い煤と血糊を腕に擦り込みました。家族を自分の体の中に入れて残したかったのだそうです。

その壮絶な記憶を綴った『わたくし96歳が語る 16歳の夏~1945年8月9日』が今年7月に刊行されました。本書は、富美子さんが語り部として語った当時の記憶を、長女の京子さんがひとつ残らず記録したものです。当時の状況を再現した挿絵とともに、16歳の少女が体験した原爆の記憶を読みやすい形で伝える内容となっています。本書について、富美子さんと京子さんにお話を伺いました。

【画像】著者が最後に母親の姿を見たときの様子を再現した挿絵

TikTokで大きな反響を呼んだ「私は16歳でしたから」


  『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』著者・森田富美子さん

──『わたくし96歳が語る 16歳の夏~1945年8月9日』を出版されることになったきっかけを教えてください。

富美子さん 編集担当さんからX(旧Twitter)のダイレクトメールで依頼をいただきました。その前日くらいに「どうしても私が経験してきた戦争のこと、Xに綴った思いなど全部を本にしたい」という話を娘としていたんです。取材をしていただく機会はたくさんありましたが、記事では文字数の関係で書ききれないことがたくさんありましたから。

──本書のタイトルにもある「16歳」という年齢に込めた思いは何でしょうか。

富美子さん 16歳といえば、本当に一番楽しい時期だと思うんです。今の高校生、中学生、大学生、そういう若い人たちに読んでもらいたいという気持ちがあります。
以前、初めて取材を受けた時に「私は16歳でしたから」と話し始めたショート動画がTikTokで拡散され、1000人以上からコメントをいただきました。「私も今、16歳です」「同じ年です。泣きました」と。私も一人ひとりに「ありがとう。戦争しないでね」と返事を書きました。

──本書は挿絵が数多く掲載されていて、当時の状況がイメージしやすい構成になっていますね。

京子さん 挿絵については、母から聞いた話を細かくお伝えして絵にしていただきました。私が下書きを描いて、「ここはこう、こんな感じで」と編集担当さんに説明して、イラストレーターのながしまひろみさんに描いていただきました。

いつもは見送らないおかあさんが、まだそこにいました。そして小さく手を振りました。「これっきりの別れ」「これが最後かも」と言ったおかあさんの言葉と手を振った姿が胸に迫ってきました。(『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』より)

富美子さん 一番印象に残っているのは、8月9日の朝、私が生きている母の姿を見た最後の瞬間が描かれていることです。弟が私の下駄を履いて出てしまったので、母親が新しい下駄を出してくれました。赤い鼻緒の可愛い下駄でしたが、私は怒ったまま黙ってその下駄を履いて、プンプンしたまま家を出たんです。途中で振り返ってみると、おかあさんが門の前に立って手を振ってくれていました。あれが最後でした。

大きなキノコ雲が見えました。その雲は、ゆっくりと崩れ、不気味に変化し始めていました。そして、まるで後光でもさしたかのように金色に光り輝きました。(『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』より)

──原爆投下の瞬間、富美子さんは学徒動員で招集された工場にいたそうですが、そこから家へ戻ろうとする道中の、爆心地付近の様子や負傷者の方々の描写も壮絶でした。

富美子さん 全身の皮膚を引きずって歩いている男性の姿が忘れられません。まるで脱ぎかけた着物を引きずるように、だらんと垂れた皮膚をずるずる引きずって歩いていました。でも、その時は怖いという気持ちはありませんでした。もう神経がどうかなっているような感じで、感覚がポーンとなくなっていたんです。

前方に大きな男の人が見えました。とても大きな人です。ゆっくり歩いて来ます。近づいてくると全身の皮膚がずるりと剥む けているのがわかりました。まるで脱ぎかけた着物を引きずるように、だらんと垂れたその皮膚を引きずっていました。(『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』より)


──焼けた家に帰り着いた後の、赤黒く血で染まった両手の描写も印象的でした。

富美子さん 家に着くと、1本だけ残った門柱におとうさんが寄りかかっていました。真っ黒に焼けた状態で立ったまま亡くなっていました。首から下げていたメガホンも真っ黒になっていました。
焼けた家の中で家族を探しました。黒く盛り上がっているところがあって、そこを掬ってみると服の切れ端が出てきました。弟たちとおかあさんの。それをトタンの上に並べて火葬しました。その時、両手が真っ黒になって、煤と血で汚れていました。「私に残されたのは、これだけ」と思って、両手をこすり合わせて、腕にも擦り込みました。家族を私の体の中に入れたかったんです。涙は一滴も出ませんでした。忘れることができない光景です。

黒い煤と血糊になった家族。両手についた黒い血糊が家族なのです。こすり合わせて体の中に擦り込みました。「私に残ったのは、これだけ」腕にも擦り込みました。強く擦り込んで、家族を私の体の中に入れました。(『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』より)――次のページからは、この書籍の中から原爆投下当日の様子をお伝えします。


──富美子さんと仲良しだったという鹿児島から来た14歳の女の子とのエピソードも心に残っています。

富美子さん その子は大島紬(つむぎ)を織っていた女の子でした。鹿児島から来た女の子たちがいて、その中で一番若い14歳の子と仲良しになったんです。彼女は私を「おねえさん」と呼び、私もその子をとても可愛がっていました。
原爆の翌日、浜口町の路面電車停留場あたりで「おねえさん」と声をかけられました。振り向いてゾッとしました。髪の毛が茶色く逆立ち、着ているものもボロボロの女の子が立っていました。「鹿児島に帰りたい」と言うんです。どうにかしてあげたい、でもどうすることもできません。「長崎駅に行ってみたら」と言うことしかできなくて、今でもそのことは忘れられません。

──遺された富美子さんと妹さんはその後、おばさん夫婦の家で暮らしたそうですが、学校を続けることができたのも、おばさんご夫婦のおかげだったんですね。

見上げた先におばさんが、おじさんが、そして心配して集まっていた近所の人たちがいたのです。歓声があがりました。皆が私たち2人を見て歓声をあげたのです。「良かった、よう来た」おばさんとおじさんが泣いて喜んでくれました。(『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』より)

富美子さん 女学校を4年で卒業して働くはずでしたが、「あと1年、学校に行きたい」と台所でおばさんに言ってしまいました。すると、おばさんは私の方に向き直り、いつものキラキラした目で真っすぐに私を見て「そのためのお金は残してある」と言ってくれたんです。「行きなさい、行けば良かやかね」と言ってもらった時、家族を火葬する時にも出なかった涙があふれ出て止まりませんでした。
女学校卒業後に進学する専攻科には30名が残りましたが、最後まで残ったのは6名でした。専攻科を卒業した後、おばさんは私を2年間の洋裁学院にも通わせてくれました。手に職をつけることの大切さを教えてもらいました。

──1992年にはハワイを訪れていらっしゃるんですよね。その時のことを教えてください。

富美子さん 私には、いつかハワイに行かなければという思いがありました。1941年12月8日、日本が奇襲攻撃をかけた真珠湾、そこから戦争は始まったのです。真珠湾の白いアリゾナ記念館で、私は静かに手を合わせました。その後、ワイキキのビーチで海に入って、小さい頃から得意だった平泳ぎで沖まで一気に泳いで行きました。大の字になって空を見上げて、プカプカ浮かびながら「真珠湾で手を合わせた。私たち世代が経験したことにも向き合った。色んなことをこの海で洗い流し、また生きていこう」と思いました。「戦争反対、せ、ん、そ、う、は、ん、た、い」声に出して呟きました。

私には25歳と27歳の孫娘がいるんですが、もし結婚して相手がこの世の中で戦争に取られたら、本当に悲しい思いをする。そんな思いをさせたくないんです。戦争は政治家が始めること。でも、自分たちが戦いに出るわけじゃないんです。国民を兵隊に出すんです。どこの国も一緒です。

──最後に、読者の皆さんへメッセージをお願いします。

京子さん この本が海外でも翻訳されて読まれるといいなと思っています。アメリカの人にも、他の国で戦争をしている地域の人にも読んでほしいです。

富美子さん 私は戦争反対。そのことをこの本を読んでくださった方々にもしっかり受け止めていただければ、私としては満足です。戦争で悲しいことがたくさんありましたが、今は娘と一緒に暮らして、本当に笑いながら毎日を過ごしています。そういう毎日を過ごせるような世の中になってもらいたいですね。
毎日のSNSでの発信では、最後に必ず「#戦争反対 #核兵器禁止」と入れることを忘れません。今の私にとって、毎日が「戦争反対」を訴える「時」なのです。思い出したくない思いから、90歳になるまで戦争のことを語らずにいた75年間を反省し、「戦争反対」を訴え、大声で「繰り返さないで」と叫んでいます。
私はもう96歳ですから、いつどんなことがあるかわからない。でも自分があの世に行く時には、みんなに本当に平和になったということを見せられるように、私は長生きしてしっかりしておかないといけないなと思っています。

取材・文=田幸和歌子

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