夢に満ちた「幸せな家庭」/気がつけば地獄(3)
ここまでのあらすじ
紗衣は、夫の祐一に内緒で美顔器を購入したが、宅配便のミスで誤配送されてしまう。誤配送を企んだのは、祐一と付き合っている26歳の夏希だった。夏希はあえてSNSで紗衣とつながり、行動をチェックしていた。
【第3回 幸せな家庭】
わたしは週に三日、近所のイタリアンレストランで働いている。ランチ営業の三時間だけだが、主婦業から解放される貴重な時間だ。
かつて、専業主婦はわたしの憧れだった。会社員時代、どれほど頑張っても評価されない仕事にはやりがいを持てなかったし、手当もなく早出をさせられるお茶当番にも、挨拶代わりの上司のお触りにも、宴席でさせられるお酌係にも嫌気がさしていて、そんな世界から脱出する道として、専業主婦になるという夢が心の支えだったのだ。だから晴哉の妊娠を機に退職したときには、万歳をしながら十年通った会社を去った。
ところが、共働きのときは一緒に家事をしていた祐一が、わたしが仕事を辞めた途端、お役御免とばかりに家では縦の物を横にもしなくなり、同時に「俺が食わせてやっている」という威圧を醸し出すようになった。確かに我が家で生活費の稼ぎ手は夫一人になったが、失ったわたしの収入の分だけ彼の給与が増えたわけではない。彼がそれを補うアルバイトを始めたわけでもない。夫は今までと何も変わらぬ会社勤めのまま、それまで担ってきた家事労働をわたしに押しつけて、楽になったのだ。一方で、わたしは全ての家事を一人で背負うことになり、晴哉が生まれてからは、育児も一人ですることになって、会社員時代に比べて労働時間は倍以上、睡眠時間は半分以下、自分のために使える時間は比較もできない、ゼロになった。
美容院に行く時間もなく、伸びっぱなしの髪で化粧もせずに働くわたしを「偉いな」と褒めてはくれても、祐一は、頼まない限り手を貸そうとしなかった。頼んでやってもらうことは、わたしの体を少しは楽にしても、心を楽にはしなかった。
文句ひとつ言うことができなかったのは、食わせてもらっているという空気に、気持ちが負けていたからだ。だから、晴哉が幼稚園に入ると同時に働きだした。
週三日だけでも、アイロンを当てたシャツを着て、メイクもきっちり施して表に出ると、次第に自信がみなぎってきた。夫婦の家事分担についても、堂々と祐一に持ちかけることができた。話してみれば、彼は反発することなく応じてくれた。そうだ、彼は元々そういう人だった。そんなところを好きになって、結婚したのではないか。なのにわたしは何にこだわって、一人で息を詰まらせ、苦しんでいたのだろう。
赤信号の交差点で自転車を停める。パート先のレストランは、もう目と鼻の先だ。街路樹のイチョウの葉が、頭上でさわさわと音をたてる。わたしは幸せなのだ。優しい夫と可愛い息子、三人で見る温かい夢に満ちた家庭。他に望むものがあるだろうか。夫の帰りが少し遅いことくらい、大目に見なければいけない。
信号が青に変わり、自転車を漕ぎだそうとしたとき、足が滑ってペダルが白いパンツの裾にぶつかってしまった。ついた泥汚れを手で叩くと、よけいに黒く広がった。むかっとした瞬間、届かない美顔器のことを思い出した。帰ったらすぐに、603号室を訪ねなければ。
* * *
「はじめましてナナさん。リプありがとうございます。宅配便の不手際、わたしは今まで経験したことがなかったので、びっくりしてます」
サニーはこの返信コメントをつけてきたあと、わたしのアカウントをフォローしてきた。これで彼女のタイムラインに、わたしのツイートが表示される。
わたしはすでに、サニー、つまり祐くんの奥さんのツイートを、遡れるだけ遡って読んでいた。彼女は「サラリーマンの夫と幼稚園児の息子を持つ専業主婦」という馬鹿正直なプロフィールで、日常生活をツイートしていた。そこには、彼女の現実を知るわたしから見れば、ほんの少し見栄を張った「幸福」が載せてあったけれど、SNSにはびこるえせセレブが盛りに盛っているものに比べれば、たわいない。それにこっちは「都心に勤めるOLで、現在結婚を考えている恋人と熱愛中」なんていう、大嘘をついている。フォロワーは百人足らずいるけれど、どうせ誰も読んではいない。だから好き勝手に妄想だって書く。でも、祐くんとのデートの話は本当だ。一緒に食べたもの、行った場所、くれたプレゼント、言われた褒め言葉、やったエッチなこと、全部本当。それを、これからは彼の奥さんが読む。
いい気味だけど、わたしは少しいらついてもいた。奥さんが、夫婦関係の不安や夫への不満を、全く書いていなかったからだ。ないはずはない。祐くんは外で、わたしと愛し合っているんだから。格好つけて書かないのだろうか。それとも、見て見ぬ振りをしているのだろうか。賢い顔を作って波風立てず、幸せ家族ごっこをしたまま、死ぬまで祐くんと添い遂げるつもりだろうか。
そんな想像をすると、背中が寒くなる。あまりに哀れだ。一人の人生として、苦し過ぎる。祐くんに離婚の意志がない限り、わたしの望みは、奥さんが愛想を尽かして祐くんを捨ててくれることだけれど、それは彼女のプライドを守ることでもある。祐くんは「割り切った関係」なんて言いながら、会うたびにわたしのことをどんどん好きになっている。一緒にいればわかる。なのに奥さんと別れないのは、子供もいて、家庭に責任があるからだ。祐くんは、そういう人だ。悔しいけれど、わたしには、祐くんの責任感を打ち砕く力はない。でも、奥さんは違う。
「サニーさん、フォロー返しありがとうございます。美顔器って高価なんでしょ? 早く戻るといいですね」
そう返信して、スマホを閉じた。
* * *
仕事のあと、幼稚園で晴哉を拾い、スーパーに寄ってからマンションに帰った。エントランス奥にある集合ポストの中を確認していて、マスキングテープで投入口を塞がれたポストに目が留まった。603号室だった。テープで塞ぐのはチラシの投函を防ぐため、つまり空室の印だ。
すぐさま、朝に見た引っ越しのトラックと、あの男の笑顔が頭に浮かんだ。家具の脚がぶつかりそうになったところを助けられたときの、抱きとめられた感触も蘇った。「怪我がなくてよかった。素敵なお洋服、汚れてませんか」と言った、低く柔らかい声と、甘苦い体臭も。
晴哉の手を引いてエレベーターに向かいながら、わたしの顔はみるみる火照った。あの男に美顔器を見られてしまったかもしれないと思うと、恥ずかしかったのだ。そして、これからあの男に連絡をとることを思うと、さらに頬が熱くなった。
晴哉におやつを与え、洗濯物を取り込んでから、宅配業者に電話をした。事情を話したが、相手は「どちらのお荷物も配達済みで、受け取りサインも頂いているので」の一点張りで、603号の住人の追跡も、断られてしまった。
途方に暮れて電話を切り、スマホの画面を見ると、ツイッターのアイコンに「1」の数字がついていた。開いてみると、最近わたしをフォローしてきた、ナナという女の子からの返信だった。美顔器のことを心配してくれている。締めつけられていた心が、ほんの少し緩んだ。祐一はSNSを毛嫌いするが、相談できずに悩むことなどないから、ここで交流する人の気持ちが、わからないのだ。
ナナのコメントに「いいね」をつけ、新規のツイートを打ち込んだ。
「身近な人の無関心のせいか、ナナさんの優しさが身に沁みます」
読み返し、「身近な人の無関心のせいか、」の部分を削除してから、アップした。
著=岡部えつ/『気がつけば地獄』(KADOKAWA)
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