「泥棒猫」だなんて、私はただ恋をしただけなのに/気がつけば地獄(10)

#くらし 
思い出すのは、結婚式の準備のこと

気がつけば地獄 10話

SNS上で仲良くなった相手は、夫の愛人でした。

パート勤めの主婦・紗衣の元にやってきた荷物。それは夫に内緒で購入した美顔器と入れ替わって届いてしまったものだった。その誤配達を企んだのは夫の愛人である夏希。夏希はその出来事をきっかけにSNS上で紗衣を発見し、身元を隠して交流を深め…。

正体を隠しながら距離を縮めていく2人の女性、そして変わりゆく夫婦関係…衝撃展開が繰り広げられるサスペンス『気がつけば地獄』から、10話までを連載でお送りします。今回は第10回です。

※本作品は岡部えつ著の書籍『気がつけば地獄』から一部抜粋・編集した無料試し読み連載です

 


ここまでのあらすじ

夫に内緒で美顔器を購入した紗衣。だが美顔器は届かず、別の住所宛の荷物が誤って届いてしまった。これは、夫と密かな恋仲にある、宅配会社勤務の夏希の企み。紗衣は、届いた荷物の送り主・田中商事に連絡するが、威圧的な態度で荷物の返却を迫られてしまう。その後も田中商事からと思われる脅迫状の投函やマンションでの空き巣事件などが続き、疑心暗鬼になっていく紗衣。想定外のその状況を、紗衣のSNSで知った夏希は、身元を伏せてDMで相談に乗ることに。互いのパートナー(祐一)について相談し合うまでに、仲を深めていく。

【第10回 倫理の外れ】

 マリッジブルーとは、懐かしい言葉だ。祐一との婚約を公表した後、周囲からよく、「おたくは大丈夫?」と訊かれた。やりがいが感じられない会社員生活に飽き飽きしていたわたしにとって、結婚は光明だったから、心配無用と返していたが、本当のところ、一度だけ心に暗い影が差したことがある。ありきたりな話だが、結婚式の準備でのことだった。

 プランナーとの打ち合わせや、二人で決めなければいけないことを話し合っている時、なんとなくわたしに比重がかかっているような気がしたのが最初だった。祐一も隣にいるのだが、どこか他人事のように一歩引いていて、彼に動いてもらうためには、「お願い」をしなければならなかった。

 結婚式が終わるとすぐに忘れてしまい、今日まで思い出すこともなかったあの影が、今、湧き出るように甦る。

 料理も洗濯も掃除も人並みにでき、生活力があり、人当たりよく、暴力は振るわず、記念日は決して忘れない、そんな申し分のない人だったから、婚約して以来わたしは無邪気に浮かれていて、その分、あの時心に差した影は濃かった。

 きっと、あれもマリッジブルーだったのだろう。わたしだけでなく、あの時期だけわたしとの間に距離をとった祐一もまた、似たような心境だったのかもしれない。

『ナナちゃん、不安なんだね。よくわかります、わたしも経験者だから。彼もそうだけど、ナナちゃんも、マリッジブルーなんじゃないかな。生活環境が変わるというのは、大きなストレスがかかることだからね。だから、深刻に考えなくても大丈夫だと思うけど、それでも不安が拭えなかったら、素直にその気持ちを相手に伝えていいと思います。これからずっと長い時間を一緒に過ごしていくんだから、遠慮しちゃだめだよ』

 送信ボタンを押した瞬間、ふいに、わたしもそうすればよかった、と思った。あの時ちゃんと違和感を伝えなかったことが、今抱えている憂鬱に繋がっている気がしてきたのだ。

 痛くも痒くもない、小さな、でも濃い影。消えたと思っていたあれが、潜んでいたどこかから少しずつ滲み出て、いつしか灰色の霞となり、わたしと彼との間に漂っている。

 * * *

 親切なアドバイス、ご苦労さま。

 胸の内でそう言って、鼻で笑ってスマホを放り投げた。「わたしも経験者だから」って、どういう意味だろう。祐くんがマリッジブルーになったっていう意味だったら、そこまで時間を巻き戻して欲しい。その頃わたしはまだ学生だったかもしれないけど、祐くんが間違った結婚をする前に会えていたら、今彼の隣で子供を抱いているのは、きっとわたしだったんだから。

 テレビでは、既婚の人気俳優と独身の若い女優との不倫が発覚したと騒いでいる。本当にもう、不倫不倫ってうるさい。そりゃあ家族を裏切った俳優は倫理に反することをしたのかもしれないけど、独身の女優はただ恋をしただけじゃない。「泥棒猫」だなんて、あんなに綺麗で将来のある女の子が、わざわざ自分が損をするとわかっているところに、飛び込んでいくはずないじゃない。

 きっとあの子は、あの売れっ子で優しそうな俳優に憧れていて、それが表に出ていただけだ。誰だって、恋すればそうなる。そしてそれを察した俳優が、甘い言葉で彼女を誘ったのだ。彼女は嬉しくて有頂天になっただろうけど、奥さんのことを考えて、きっと躊躇した。でも男は誘うのをやめない。妻とはもう終わっているとか、家庭内別居しているとか、離婚するつもりだとか、彼女がうしろめたさを失うようなことを言って、誘惑したのだ。そうして熱烈に燃え上がって、愛し合って、離れられなくなって、彼女が「彼はわたしのもの」と考え始めたところで、あの男は「割り切ったつき合いを続けていこうね、大人なんだから」とかなんとか言ったに決まってる。

 だからあの子は、SNSに、バレるようなことをわざと書いたのだ。テレビでもツイッターでもそれをクソミソに叩いているけれど、バカみたい。そんな気持ちもわからないなんて、今まで本気で恋をしたことがないの? 頭にくる。

 若くて、綺麗で、才能があって、これからというあの女優が、本当にかわいそう。ただ恋をして、相手に振り向かれて、誘われたから嬉しくて、その手を握り返しただけなのに。

 テレビ画面に、俳優の妻の映像が映し出された。小さな子供を抱っこして、歩いているところだ。夫に尽くして家庭を守っている、美しくて賢くて完璧な、でも裏切られた妻。みんな彼女に同情している。昨日までただの「奥さん」だったのに、突然悲劇のヒロインになって、ちやほやされて、なんかずるい。

 ああ、いやだ。意地の悪いことを考えると、自分が醜くなっちゃいそうで、本当にいや。それもこれも世の中が、罪のない女を極悪人扱いするからだ。彼女だってわたしだって、奥さん以上に傷ついて苦しんでいる、優柔不断な男の被害者なのに。

 カーペットに転がっているスマホを拾い上げた。この時間に連絡がないってことは、祐くんは今夜は来ない。残業なのか、奥さんから空き巣のことを聞いて早く帰るつもりなのか、わからない。

 LINEを開いて、慎也を探す。

『元気?』

『おっ、俺の女神!』

 すぐに返信が来る。暇なやつ。

『ねえ、この間の質問覚えてる?』

『わたしのどこが好きだったの、ってやつ?』

『そう』

『答えたろ、顔も性格も全部って』

『振られたのに、何で嫌いにならなかったの?』

『なるわけないじゃん。人を好きな気持ちって、そんな簡単に変えられないよ!』

『今でも好きだって言ってたよね』

『今でも大好きだよ、夏希!』

『ねえ、今夜飲みに行かない?』

『マジ!? 今夜は急だなー。明日にしようよ』

『今夜がいいの』

『相変わらずわがままだな。でも悪い、今もう家だから出られない』

『家にいたら何で出られないの?』

『そりゃあ、一応一家の主だからさ。俺、ベビーの風呂係なんだよね』

 スマホを落としそうになった。慎也が結婚していたなんて、全然知らなかった。思いもよらなかった。

『了解。またね』

 振っても振っても告白してきて、今でも大好きだなんて言っておいて、ちゃっかり結婚して子供までいるなんて、なぜ最初にそう言わないの。

 恥ずかしさと怒りで胸が苦しい。スマホの画面がゆらめいたので、慌てて手の甲で涙を拭った。あんなやつのために泣くなんて、ありえない。

 ツイッターを開くと、祐くんの奥さんがツイートしていた。

『テレビをつけたらまた芸能人の不倫報道。相手の女優さんがすごく叩かれてるけど、あの年齢の頃の自分を思い出すと、まだまだ未熟だったから、なんだかかわいそうになってくる。もちろんいけないことだけど、関係ない人たちが寄ってたかって断罪するのも、どうなのかな』

 ぼうっとした人だと思っていたけど、案外まともなことを考えてるんだ。でもまあ、自分の状況を知らないから、のんきにこんなことを書けるんだよね。

 知ったらどうなるだろう。修羅場になるかな。それとも、想像どおり実は夫婦仲はうまくいってなくて、すんなり離婚になったりして。

 どうしてだろう、ずっと夢みてきたことなのに、全然楽しくない。

著=岡部えつ/『気がつけば地獄』(KADOKAWA)


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