「発泡スチロールで遊びたいけど…やめとく」子どもの探究心を削いでしまう大人のひと言/大人になってもできないことだらけです(2)

子育てに絶対の形はない

なにも目指さないでみる

子どもが好ましくない行動をしたとき、例えば忘れ物をするとか、片付けをしないとか、電気をつけたのに消さないとか、準備が遅いとか、そんなときに「何回言ったらわかるの?」って言っちゃうことがある。

もちろん、1回目からそんな言い方はしないで丁寧に伝えるし、子どもの言葉も聞こうと努める。けれど、何度も何度も注意して怒るのをこらえて、それでも変わってくれないと、「何回言ったらわかるの?」と言ってしまう。

「?」をつけているから尋ねているようだけれど、「うーん、10回かな」なんて返されたら「回数を聞いているんじゃない!」と激昂してしまうだろうから、実際は「1回でわかってよ!!!」ということなのだろう。

そういった場合に1回で聞いてもらえることはほとんどない。1回で聞いてくれないから「何回言ったらわかるの!」と言ってしまうんだもんね。「この子はできるはずなのに」「この間までできていたのにまた振り出しに戻った」、そんな風に感じてしまう。

よりよく育ってほしいから、散らかしても片付けができるように。うっかりで済まされないこともあるんだから、忘れ物をしないように。そう願うことは自然なことだ。

けれど、「そういう人」になることを目指すとしんどくなるかもしれない。「できる」ことがゴールになるから「できない」ところに目がいく。できていないことをできるようにすることに力を注いでしまう。習慣づけが訓練になってしまう。

でも、生活習慣を身につけることって訓練なのかな。きっと違うよね。白米を上手に食べられる大人になるために毎日食事をするわけではないように、片付けが上手にできる子になるために片付けをするわけではない。生きるために食べるんだし、快適に過ごすために片付ける。

習慣というのはなにかになるための訓練ではなく、ただの毎日を年輪のように積み重ねていくことだ。そうして身についていくし、身につかなかったりもする。

だから怒っちゃダメだよ、と言いたいわけではない。怒っていいと思う。けれど、何度言ってもわかってくれなくて、成長していないように見えても、「大丈夫だ」ってこと。

何度言ってもわかってくれない。何度注意しても直らない。ゴールを目指してしまうと全然進んでいないように見え、足りていないように感じるけれど、「今」に照準を合わせられたなら、今日の繰り返しなのだと思えたのなら、何度も伝えることもしんどくなくなるんじゃないかなって思ったのだ。

きっと、落ち込んでいる人がいたときに「落ち込むような人間になるんじゃないよ」と声をかけることはないよね。その時々で「しんどかったね、つらいよね、けれど私はあなたのことが大切だよ」、そう伝えるんじゃないかな。

そんな気持ちで「片付けなよ」「意地悪言っちゃったね」「叩いちゃったね」と寄り添える余裕が少しでもできればいいなと思う。いや、いつでもは無理だと思う。僕も無理だ。けれど、それもいいんだと思う。

僕たちも「怒らない人」を目指さなくていいんじゃないかなって。ダメだなんて落ち込まないで、「あ、今日は怒っちゃったな、ちゃんとフォローしとこう」「ちょっとイライラしてて怒っちゃいそうだから今日は目をつぶろう」、そうやってその都度向き合っていけばいいんじゃないかな。

そして、余裕を持って向き合えたときには「今日はいい感じやったね」と自分を褒めてあげたいなと思う。

もちろん、子どもの成長を俯瞰することも大切だから、その上でその子になにが必要なのか(優先順位が高いのはなにか)を考えて、片付けができるような配慮や、手を出さずに済むような支援をしていかなければいけない。

ただ、一足飛びで解決とはいかないから、行ったり来たりしながらそのときそのときのその子と自分に向き合えたらいいなと思う。

子どもたちは、僕たちの気づかぬうちに見えないところで育っていく

Information

本ページはアフェリエイトプログラムによる収益を得ています

おすすめ読みもの(PR)

プレゼント応募

新規会員登録する

読みものランキング

読みものランキングをもっと見る

レシピランキング

レシピランキングをもっと見る

レタスクラブ最新号

レタスクラブ最新号詳細