ときにヒヤリとする乱暴な言葉遣い。子どもの言葉と向き合うときに伝えたいこと/大人になってもできないことだらけです(4)

本当の思いを伝えることでお互いが救われることもきっとある

自分が自分であるということ

優しい人だねと言われたら、「そうなのかな」と思うと同時に、期待に応えようと思う。強い人だねと言われたら、弱音を吐いてはいけないような気がする。

本が好きだもんね、勉強好きだもんね、優しいもんね、子どもが好きだもんね。

その言葉に励まされることもあるし、道を踏み外しそうになるのを踏み止まらせてくれることもある。けれど、その言葉が呪いとなることもきっとあるんだろう。

期待に応えたいという思いとあわせて「そうある自分に価値がある」と思ってしまっていたりもする。言い換えればそれは、期待を裏切らないように、価値がないと思われないように、ということ。

自分の役割に徹していると、自分の気持ちが疎(おろそ)かになる。そんな自分の気持ちをなおざりにしていることに気づいていなかったりもする。

大人だから、子どもの言うことには傷ついたりしない。親だから、めんどくさいこともきちんとやる。長男だから下の子に優しくする。上司だから、部下だから……それぞれの立場でそれぞれの役割を演じるために、ときに頑張りすぎたりする。

それってやっぱりしんどい。

だから、優しくない自分もいていいんじゃないかな。頑張れない自分も、意地悪な自分も、ネガティブな自分も、期待を裏切る自分も。

「相手はどんな言葉を望んでいるんだろう」、それを考えることはきっと優しさなんだけれど、本当の思いを伝えることでお互いが救われることもきっとある。

それは、自分を大切にするということでも、相手を大切にするということでもあるよね。

子どもも同じだ。僕たちが抱く「子どもは純粋であってほしい」とか「子どもに邪悪なところなんてない」という期待が、子どもも大人も追いつめてしまう。

自分にどんな役割があったとしても、自分がしたくないことやできないことは「したくない」と言っていい。それは、自分も一人の人間であるという、自分が自分であるということ。

命を危険にさらすとか突き放すのでなければ、相手を故意に傷つけたりするのでなければ、大人も子どもも一人の人間だ。

子どもに対してだけでなく家族にでも友人にでも職場でもそうなんだと思う。当たり前にそれを我慢する必要はない。

そんなことを言ったらできる人にしわ寄せがいくとか、みんなわがままになってしまう、と言われるかもしれない。「それはしたくないな、嫌だな」と思っても、それを伝えても、結局はやらなきゃいけないことはある。

けど、だからって黙ってなきゃいけないとは思わない。部屋の掃除はしたくないし、洗い物がめんどくさい。だからって「掃除めんどくさーい! やりたくなーい!」と言っちゃダメかといえば、そんなことないはずなんだよ。

「いい大人なんだから掃除するの当たり前でしょう」「文句なんか言わずにやれよ」なんて言わないでほしいし、自分で自分をそうやって追い込むのももうやめたい。

「めんどくさいよね、明日にしよっか」「まあでもやろっか」「誰かにたのもっか」でいいんじゃないかな。

絶対に手を抜けない消毒とかもさ、やるのが当たり前でしょうではなく「めんどくさいよね、けどやらなきゃね」って自分で自分を慰めながらやっている。

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