ときにヒヤリとする乱暴な言葉遣い。子どもの言葉と向き合うときに伝えたいこと/大人になってもできないことだらけです(4)

伝えることって立場によってはとても勇気のいることだから、言えないことが悪いことだということではなくて、自分を大切にするために、自分を追い込む必要なんてないってこと。
近しい人に話したり、帰って独り言を言ったりしても、SNSに吐き出したりしてもいい。「ほんとは嫌だったんだよね」「悲しかったんだよね」「むかつくんだよね」とほんとの気持ちを言葉にするだけで、自分の気持ちを大切にできるような気がする。その言葉が少し乱暴でもいいのかもしれない。
もしかしたら相手も自分の感情を正確には言葉にできていなくて、悲しませるつもりはなくて、まっすぐ正確に言葉にすれば関係がよくなることだってきっとあるんだろう。もちろんそんな簡単なことではなくて悪化することだってあるけどね。
自分が誰かのその心の言葉を聞いたときに、「なら代わりに僕がやりますね」って言うかもしれないし、「キツイですよね」って共感するだけかもしれない。
けれど「あなたはこうなんだから」「あなたの役割なんだから」「あなたが言ったんだから」って、その思い自体を批判して突き放したりしないように気をつけていたいなと思う。
自分の思いや価値観は、人を叩くためのものではなく、自分を守るためのものだ。
そうやって考えるだけで、自分の言葉で誰かが傷つくことはあっても少なくとも攻撃してしまうということは減るのかもしれない。
僕の文章も、誰かの心に突き刺さる言葉としてではなく、そこらに生えている草花を眺めるような、たまに気になったら摘むような、そんな感覚で読んでもらえていたら嬉しいなと思う。
余談ですが
子どもの頃、たまに会いに来てくれるじいちゃんは、いつもあんパンを買ってきた。僕の二つ上の兄の好物だったからだ。
じいちゃんがあんパンを買ってくるたびに、僕の中であんパン好きの兄ちゃんというイメージが確立されていき、兄の中でも「自分はあんパンが好きだ」という意識が強化されているようだった。
兄の喜ぶ姿を見てじいちゃんは「やっぱり好きなんだな」と満足げにまたあんパンを買ってきた。
そのままいけば相当なあんパン好きになるんだろうと思われたが、意外にもそうはならなかった。ある日当たり前のようにあんパンを取ってあげると、「俺、あんまりあんパン好きちゃうかも」と遠慮がちに兄は言ったのだ。
「自分は本当にあんパンが好きなのか、君はあんパンが好きだねと周りに言われるからそんな気がしていたのか、本当は好きじゃないんじゃないか」、そんな葛藤があったかどうかは知らない。
自分が本当に好きなのはあんパンではなくあんパンが好きな自分なんじゃないか、なんて悩む姿を想像すると微笑ましいけれど、当時の幼い僕はなにか不安な気持ちになった。
たしかに好きだったはずなのに飽きてしまったんだろうか、もともと好きじゃなかったんだろうか、じいちゃんはどんな気持ちになるんだろうかと、誰も悪くないのに、寂しいような切ないような、言葉にできない気持ちになっていた。
その事実がじいちゃんの耳に入ったのかはわからない。そのあとじいちゃんが変わらずあんパンを買ってきていたか、買ってこなくなったのかも覚えてないくらい曖昧な記憶だ。
けれどたまに、嬉しそうにあんパンを買ってきたじいちゃんと、突如あんパンに別れを告げた兄を思い出す。
みんなが優しいのになぜか悲しい。なんだか少し切ないけれど、誰か一人がしんどいのではなく、みんなが優しいからみんなが少しずつ悲しいのなら、そのほうがいいのかもしれない。

著=きしもと たかひろ/『大人になってもできないことだらけです』(KADOKAWA)
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