香りについてー『いつか別れる。でもそれは今日ではない』vol.4

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Twitterフォロワー数19万人超の「F」さんによる初エッセイ集『いつか別れる。でもそれは今日ではない』。この本は2017年4月の発売され、以降、大きな話題となり、15万部を超えるヒットとなっています。

そこで「レタスクラブニュース」では、本書の中から4篇をピックアップ、4週にわたり特別掲載しています。今回は最終回「香りについて」。

 

038 香りについて

 

最後まで人が忘れられないものは、香りらしい。

まず声を忘れる。それから体温を。次に、形を忘れ、言葉を忘れ、横顔も忘れる。それでも最後まで忘れないもの。暴力的に私たちを立ち止まらせて、一瞬にして現在から過去へと突き飛ばすもの。正確に身体に埋め込まれた、時限爆弾のようなもの。恋文にも似た、脅迫状のようなもの。

香りという形のないものを適確に表す言葉がないから、人はまずそれを意識的にも無意識的にも、藁をも掴むようにして、記憶するのかもしれない。

かつて好きだった人が愛用していたフレグランスは、イヴ・サンローランのものだとばかり思っていた。私はそれをとても気に入っていた。そうして先日再会した時、ふと直接訊きたくなって、あなたが使っていたフレグランスってどんな名前だっけと訊ねると「あたしは香水なんて付けたことない」と答えられ途方に暮れたことがある。なんてことのない会話を交わしながら、黙ってその人の香りに集中したのだけれど、たしかに、もうその香りは私が知っている香りではなくなっていた。もしかしたら、本当はあの時と同じ香りを放っていたのかもしれない。でも、それは違っていた。つまりは、もう、そういうことなのだ。

それでも街角で懐かしい香りにぶち当たった時は、肋骨が軋みそうな痛みを感じる。もう、なんとも思っていないのに。あるいは、その人の名前を聞いた時も、だ。もう、どうしたいとも思っていないのに。そう思うことも、私が私に吐く嘘なのだろうか。

香りは二度目以降の失恋を、何度でも私たちにもたらす。

そんなわけで、フレグランスが好きだ。無駄で、贅沢で、孤高。あるいは、煙草や映画館と同じ性質だ。フレグランスもまた、私たちを一人きりにもさせてくれれば、一人ぼっちにもさせてくれる。人工的孤独とは即ち、他人に与えられる地獄でもある。

雨の香りも良い。

雨が降った後の匂いは、植物中の鉄分と地面上の微生物とが混じったものらしい。つまりは遠い昔の、誰かの死体の一部が混じっている。雨の匂いがどこか懐かしく、死を静かに連想させるのは、きっと偶然ではないのだろう。

愛される本に、栞が挟まれる。香りは、思い出の余白に挟まれた栞のようだ。

母から初めて盗んだものは、香水ボトルだった。CK One。シンプルな石鹸の香り。正しくありたいと思わせてくれるような香り。勉強に疲れた時はそれを首につけて、目覚まし代わりにした。夏の香りと謳われている香水だけど、私にはそれは冬の香りがする。

きっといつかそれは、母を思い出す唯一の香りになる。そしていつかひどく寂しい香りになる。幸福な記憶は、いつかすべて、そうなることを約束されている。

上手に人間のふりをしたところで、私たちは本来的に、獣だ。嫌いな香りがするものと、人は付き合いきれない。好きだと思っていても、その人の香りが好きでも嫌いでもなくなったら、その関係は終わりに近い。その容赦のないシンプルさが好きだ。

好きなものからは、いましばらく、幸福な香りがする。

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『いつか別れる。でもそれは今日ではない』
なにかに悩んで眠れない夜、読みたくなる一冊

Twitterフォロワー数13万人超(2017年4月時点)、恋愛や人間関係、人生観をするどく考察する人気ツイート、書籍化。寂しさを感じたり、自信を持ちにくいときに読むとすっきりします。

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