片づけと個性や文化って関係あるの? モノを元に戻す技術(4)【連載】 画像(1/2) 整理整頓とは「他人と自分を尊重すること」

インターネットなどから日々発信される情報に振り回され、いらないモノにも関わらず、整理整頓に、多くの時間を費やしている、現代を生きる女性たちへ。「シンプルライフ」の体現者で、ベストセラー作家のドミニック・ローホーさんが満を持して贈る、豊かな人生を手に入れるための片づけ術のすべて。

片づけをすることによるメリットから、片づけの準備に至るまでの段階を『モノを元に戻す技術 片づいた部屋があれば、大抵のことはうまくいく』から全11回までお届けします。今回は第4回目です。

片づけと個性、文化、社会

【整理整頓とは、他人を尊重し、自分を尊重すること】

"日常生活においてもっとも取るに足らない行為におけるまで、

常にあなたの神をたたえようと努めなさい。

掃くことや入浴すること、料理をすることも、

あなたの神―それはあなた自身であるかもしれない!―に

敬意と献身を表す機会なのです。

津田逸夫

『Le dialogue du silence(沈黙の対話)』(未邦訳)"

私のまわりの何人かの人たちに、できるだけ失礼のないように、「どうしてあなたの家は散らかっているの」と尋ねたとき、彼らは片づけることが大嫌いだと声高に答えました。乱雑な部屋の中で常にいくつものことを同時にして、すぐに集中力がなくなることがよくあることを自覚していると正直に認める人もいましたし、自分がしたくないことをほかの人に頼っていると認める人もいました。そのうちの一人がこう言いました。「片づけは妻の仕事だ。彼女は片づけが好きなんだ」と。「それは違うわ」と言い返したくなりました! ほかの人があなたより片づけが好きなわけではありません。ただ、あなたより散らかっていることに慣れていないし、被害を被っていることに耐えられないだけなのです。

家族のことを真剣に考えると、一人で暮らしているわけではないのに自分のまわりを散らかすことは、家族に対する敬意が欠けているということだと理解できるでしょう。片づけることで、家庭に平安がもたらされるだけでなく、他人も自分も尊重できるようになるのです。

【片づけと個性の問題】

"転換は完全に吸収されたときにのみ起こる。(中略)

この作用法は、私たち自身の精神的介入によって、いつものように、

もうふさがっていないエネルギーの大きな流れを即座に解放する。

すると、私たちはよりうれしくなり、

言葉の両方の意味において軽くなるのだ。

ヴィッキ・マッケンジー

『Un ermitage dans la neige(雪の中の修道院)』(未邦訳)"

片づけについて話をしていた友人は、つい最近会議があって、同僚と一緒にホテルに泊まったのだと話してくれました。その同僚は魅力的で聡明だけど、かなりだらしがないそうです。「彼女はモノをどこにでも置くのよ。部屋の真ん中で靴を脱いだら、脱いだ場所に置きっぱなしなの。コーヒーを飲んで、そのあいだにバッグから取りだしたい書類のことを思いついたら、半分飲んだだけのカップを飲んでいたところにそのまま置いて、その後放ったらかしにするの。歯を磨いたら、歯磨き粉のチューブのふたを閉めない。バッグの中のものを使ったら、元には戻さないでどこにでも置く。ほかのものもそんな感じよ」と彼女は私に言ったのです。

この整理能力のなさは当然、私の友人をいらだたせました。彼女はこう付け加えました。「朝起きたとき、私は当たり前のようにベッドの上で毛布をたたむの。そうすると部屋があまり散らかって見えないし、一日の準備がより楽にできるからよ。でも同僚はホテルの部屋でベッドをそのままにしたの。彼女にとっては、機械的な動作じゃないのよ。私にとっては勝手に身体が動くことなんだけどね!」

なぜ当たり前のように「きちんとした」人もいれば、どうしても「だらしない」人もいるのでしょう? デスクの上が不要な書類でいっぱいでないと集中できない人もいれば、反対に、何に取りかかるにも自分のまわりをすっきりさせる必要のある人もいます。また、雑然とした中に暮らしていても、自分の持ちものがどこにあるかきっちりとわかっている人もいます。それは個性の問題でしょうか? 教育の問題でしょうか?

私の義姉は、かなり几帳面です。どこかに着くとすぐに、彼女は自分のバッグを置く場所を決めます。そして、帰るときまで彼女のバッグはその場所にあるのです。彼女のお父さんは非常に厳しい方だったようです。

たしかに一般化することはできません。片づけは自己の表現であり、意志を明確にすることであり、モノとの個人的なかかわりでもあるからです。けれども、だらしない人の大半はそのイメージどおり、あまり整理整頓されていない暮らしをしていることが多いのです。そうした人たちは、自分の時間をきちんと整えること、つまり、そのときの優先順位によって決断を下すことができません。

私の友人のアキコさんは、3日間の出張で3セットの衣装を準備していました。すなわち、パンツが3本、ブラウスが3枚です。「全部で3セットよ」と彼女は言いました。しかし中には、何を着るかよく考えず、洋服だんすの半分ほどを空けてスーツケースに詰めこんできた人もいたそうです。

だらしない人は、自分が人生を複雑にしていることがわかっていないのです。彼らはこうした実践的な技を備えていないのです。場を共にした人に不快感を抱かせていることにも気づいていません。つまり、片づけは個性の問題であるだけではなく、自己管理の問題でもあるのです。なぜなら、自制心があることを示すというのは、まさに自分の行動の一つひとつに責任を持ち、それを最後まで成し遂げることができるということだからです。使用したら歯磨き粉のふたを閉め、歯ブラシと一緒に元に戻すのと同じことです。すなわち、何よりもまず、自分の行為や行動の結果をはっきりと意識することです。それは、「そこにいる」こと、存在していることです。それはいつも(過去も未来も)、「他人任せで」生きるのではなく、今この瞬間にしていることを、それがたとえその後に行うことほど重要ではなくても、自覚することです。

【整理整頓は文化の問題】

私の住む京都では、どの家の玄関も、お店、お寺の敷地も、丹念に配置され、整理され、片づいています。まるで市が「世界一きれいな場所コンテスト」を主催したかのようです。もし西洋の精神科医がこの街に来たらおそらく、全住民があまりに片づけに神経質だと言うでしょう。ところが、ここでは整理整頓は文化の一部なのです。何よりもまず精神と身体の自制心を説く禅に強く影響を受けた文化です。それは、整理整頓が文化の問題でもあるという証です。

西洋では、掃除を使用人や従業員にしてもらいます。お金がある人たちは、家を片づけるためにお手伝いさんを雇うのです。しかし、次のことを思いだしてください。片づけはかつて道徳の問題でした。むだ遣いを避けなければならないことや、線を引いて削除したりせずに、きちんと美しい字で書かなければならないことと同じく、片づけなければならなかったのです。道徳は理解するものではありません。そうではなく、ただ単に、個人的観点からも社会的観点からもよりよく生きるためにあるのではないでしょうか?

著=ドミニック・ローホー 翻訳=笹根 由恵