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人生逆境だらけ! それでも心は負けなかった細川(ガラシャ)さんの場合【オンナ今昔物語2】

「あの悲劇の女性」の生涯とは
数多くの武将が登場し、一般的にも気の高い戦国時代。この時代、悲劇的な最期を遂げたキリシタン女性として有名なのが細川ガラシャです。
世間的には「かわいそうな女性」というイメージで通っているかと思いますが、詳しい生涯を知っている人は少ないでしょう。
短い生涯の間に幾度も逆境に見舞われながら、誇りを守り抜いた女性・細川ガラシャについて紹介しましょう。
細川ガラシャは、織田信長の重臣・明智光秀の娘として生まれました。ガラシャは洗礼名(キリスト教徒としての名前)で、本名は「玉子」といいます。
1578年、玉子は信長の家臣である細川藤孝(ふじたか)の長男・忠興(ただおき)と結婚しました。明智光秀の若い頃は不明なことが多く、実力でのし上がった成り上がり者です。
一方、細川藤孝は由緒ある名門武家の一員。対照的な両家ですが、途中から信長の家臣になった「中途採用組」なのが共通点でした。「家臣同士の結束を強めよう」と考えた信長が、忠興と玉子の結婚を世話したのです。この時、二人はともに数えで15歳でした。
玉子は絶世の美女で、琴や笛の演奏が上手だったそうです。文化人でもあった忠興は、玉子をとても大切にしました。
玉子の父・光秀は、多くの手柄を立てて信長の天下取りを助け、家臣団トップに出世。夫の忠興は文武両道で、信長からも期待される若者――玉子の将来は順調に見えました。
ところが、その運命が暗転する事件が起きます。
逆境その1 謀反人の娘になる
1582年、父の光秀が突然信長を裏切り、自害させてしまったのです(本能寺の変)。謀反の理由は不明ですが、「信長を殺した後、親類の細川家は協力してくれるはず」という見通しはあったはずです。
ところが、細川藤孝・忠興父子は、「光秀に協力しない」という判断を下しました。当ての外れた光秀は、信長の仇を取りにかけつけた羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、殺されました。敗者となった光秀の親族や重臣も、ほとんどが命を落としました。
光秀の娘である玉子の立場も危うくなりました。忠興は、「光秀とはかかわりがない」ことを示すため、玉子を離縁した上、人里離れた味土野(みどの)という山奥に幽閉してしまいます。
しかし、これは玉子の命を守るための策でもありました。幽閉中にも子どもが生まれており、忠興の愛情が変わらなかったことを示しています。
逆境(?)その2 夫の愛が重すぎる
信長の死後、忠興は豊臣秀吉の重臣として仕えることになります。本能寺の変から2年後、秀吉は忠興と玉子の再婚を許しました。こうして、玉子は大坂の玉造にある細川家の屋敷に住めるようになります。
しかし、忠興は妻への愛情が深すぎたのか、厳しい監視をつけて外出も許さず、限られた人としか会話をさせませんでした。亡くなるまでの16年間、軟禁に近い状態が続いたのです。
忠興は極めて烈しく嫉妬深い性格をしていました。ある時、庭師が玉子の美しさに見とれてしまったため、激怒して斬り殺してしまったという逸話もあります。
こうした逸話がすべて史実とは思えませんが(キリスト教宣教師の記録では、忠興は実際以上に悪く書かれているため)、苛烈な性格だったことは間違いないでしょう。
味土野時代から続く孤独の中で、玉子は信仰に救いを求めるようになります。キリスト教の噂を聞いて興味を持った玉子は、忠興の遠征中に一度だけ屋敷を抜け出し、こっそり教会を訪れます。
玉子に接した宣教師は、彼女が賢く鋭い質問をすることに驚いたといいます。その後も、侍女たちを通じて教えを学び、とうとう洗礼を受ける決心をしました。
玉子には外出の自由がなかったため、「侍女が宣教師から洗礼の方法を教わる→侍女が屋敷の中で玉子に洗礼を行う」という手のこんだやり方を使い、彼女はキリシタンになりました。ここで得た洗礼名が「ガラシャ」です。
記録によれば、キリスト教の教えを知ってから「怒りやすかったのが忍耐強く、気位が高かったのが謙虚になった」といいます。信仰は、ガラシャに心の強さを与えたのです。
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