人生逆境だらけ! それでも心は負けなかった細川(ガラシャ)さんの場合【オンナ今昔物語2】

 


逆境その3 キリスト教禁止令が出る


ガラシャが受洗したのと同じ1587年、豊臣秀吉はある命令を出します。バテレン追放令、つまりキリスト教の禁止令でした。キリスト教を信仰する大名の中には、追放刑を受けた者もいました。

遠征から戻った忠興は、ガラシャがキリシタンになったことを知って激怒します。しかし、夫から信仰を捨てるよう強要されても、ガラシャは屈することはありませんでした。忠興も根負けし、ガラシャは密かに信仰を持ち続けることになります。

逆境その4 一族があやうく罪人になりかける


1595年、豊臣秀吉の甥で後継者候補だった秀次が、謀反の疑いを受ける事件が発生しました。秀次は切腹を命じられ、妻子や重臣などもことごとく処刑されました。

忠興とガラシャの長女・長(ちょう)は、この時切腹を命じられた秀次重臣に嫁いでいました。そのため、細川家も巻き添えで謀反の疑いを受けてしまいます。

長にも処刑の危険が迫りましたが、夫と離縁して謹慎することで命は助かりました。この経緯、本能寺の変の後のガラシャと同じですよね。ガラシャの辛い経験が、長女の命を救うのに役立ったのです。忠興も必死に秀吉に弁明し、細川家の疑いは無事に晴れました。

逆境その5 人質になるよう強要される


1598年に豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康と石田三成が対立。大名たちは東軍と西軍に分かれ、関ヶ原の戦いが起きます。忠興は東軍につき、家康に従って出陣します。ガラシャは大阪にある細川家の屋敷で留守を預かっていました。

その矢先に挙兵した西軍の石田三成は、「東軍の武将の妻子を人質にとって、東軍を動揺させる」という作戦を立てました。その標的には、大阪の屋敷にいた細川ガラシャもいました。

三成は、まず細川家屋敷に使いを送り、交渉でガラシャたちを大阪城に移動させようとしました。しかし、ガラシャは断固としてこれを拒否。とうとう三成は、軍勢を差し向けて屋敷を包囲します。

ガラシャはすでに覚悟を決めていました。侍女たちを外に逃がすと、家臣に命じて自らを長刀で突き殺させたのです。自刃しなかったのは、キリスト教が自殺を禁じていたためでした。

ガラシャの壮絶な死によって、石田三成は人質作戦を中断せざるを得なくなります。もしガラシャがおとなしく人質になっていたら、他の東軍武将の家族にも波及し、東軍の武将は動揺したでしょう。

妻の死を聞いて、忠興は悲しむとともに三成を激しくうらみます。彼は関ヶ原の戦いで奮戦し、東軍が勝利を収めました。ガラシャの死は関ヶ原の戦いの勝敗に、つまり日本史の大きな流れに影響したのです。


細川ガラシャといえば、「夫の忠興に束縛された末、意に反して命を落としたかわいそうな女性」というイメージがついて回ります。しかし、人質になることを拒んで死を選んだのは、明確な彼女自身の意志でした。これはガラシャの死の様子を描いた史料を読めばわかります。

当主の忠興が東軍についた以上、その立場を貫くというのが、大名の妻としての責任の果たし方だったのでしょう。38年の短い生涯に何度も逆境が降りかかりましたが、ガラシャは決して負けることはなかったのです。

ガラシャの死後、忠興は嫌っていたはずのキリスト教の神父に依頼し、教会で妻の葬儀を挙げさせたといいます。彼はその後正室を持つことなく、1645年に83歳で生涯を終えました。

文/三城俊一(みきしゅんいち)

文筆家。1988年奈良県生まれ。学習塾講師や教材制作業の傍ら、歴史系ライターとして活動。著書に「なぜ、地形と地理がわかると現代史がこんなに面白くなるのか」(洋泉社新書)、「ニュースがわかる 図解東アジア史」(SBビジュアル新書)など。

イラスト/なとみ みわ

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