病気、大事故、夫の不倫…!たたみかける不幸をばねにして名作を生んだフリーダ・カーロの人生【オンナ今昔物語5】

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その後の人生を変える、国民的画家との出会い


事故から3年ほどたって、フリーダは画家になる決意を秘めてある人物に会いに行きます。メキシコの国民的画家、ディエゴ・リベラです。リベラは、大規模な壁画の制作で、当時すでに有名人となっていました。

リベラの回想によると、仕事中にフリーダが押しかけてきて、「私に才能があるかどうか、絵を見て教えてください」と言ってきたそうです。リベラは一目で彼女の才能を見抜き、「どんなことがあっても絵を続けなさい」と答えました。

この時、フリーダは21歳、リベラは42歳。リベラは肥満体で、お世辞にも美男とは言えませんでした。一方、エネルギッシュでユーモアがあり、多くの女性と浮き名を流してもいました。フリーダは、リベラの強烈な個性に惹かれます。リベラも、美しく情熱的なフリーダの魅力に取りつかれました。1929年、フリーダとリベラは結婚します。

フリーダは夫に献身的に尽くしましたが、リベラは仕事に打ち込むことが多く、妻をあまり顧みませんでした。また、リベラの派手な女性関係も治らず、フリーダは孤独に苦しみます。事故の後遺症と思われますが、子どもを流産したことも追い打ちをかけました。そして1935年頃、決定的な出来事が起きます。リベラが、あろうことかフリーダの妹・クリスチーナと不倫したのです。


夫の裏切りに深く傷ついた彼女は、当てつけのように自分も不倫を始めます。その相手は、日系人の芸術家イサム・ノグチ、ソ連から亡命してきた革命家トロツキーなど、一流の人物が多くいました。また、不倫相手には男性だけでなく女性も含まれていたそうです。

奔放な生活をするだけでなく、フリーダは創作活動にも打ち込みました。事故の後遺症や夫の浮気、流産といった辛い出来事を、次々と作品に昇華していったのです。

夫の浮気に苦しんでいた頃のフリーダの作品に「ちょっとした刺し傷」というものがあります。無残に傷つけられた女性の傍らに、薄笑いを浮かべた男がナイフを持って立っている……という絵です。男が女を深く傷つけておきながら、「ちょっとした刺し傷」だと思っている――フリーダのリベラに対する怒りが込められた絵画です。

フリーダの作品には個人的な経験が深く関わっていますが、当時の前衛美術の流行だったシュールレアリスムの手法や、メキシコ先住民の美術も取り入れられています。彼女の個性的な作品は、徐々に国際的な評判を勝ち取っていきます。

フリーダの名声が高まるとともに、リベラの心は妻から離れていきました。1939年、リベラはフリーダに離婚を申し出ます。夫に捨てられたと感じたフリーダはアルコールにたよるようになり、健康状態は悪化。リベラは離婚を後悔し、1年ほどで2人は再婚しました。リベラは良い夫とは言えませんでしたが、妻の芸術の最大の理解者であり、フリーダはリベラなしでは生きられなかったのです。また、奔放に生きたいリベラを受け止めてやれる女性も、フリーダしかいませんでした。

死の直前まで描き続けたフリーダ


30代ごろから、古傷だらけだったフリーダの肉体が限界を迎え始めました。いくたびかの大手術にも関わらず痛みは改善せず、鎮痛剤のモルヒネの中毒症状にも苦しみます。1953年には、右足を切断しなければならないほど、病状は悪化していました。

翌1954年7月13日、フリーダ・カーロは47年の苦痛に満ちた生涯を閉じました。常人ならばとても耐えられないような運命に見舞われたフリーダですが、彼女は不幸をばねとして、不朽の名作を生みだしたのです。

フリーダ・カーロが死の直前に描いた最後の作品は、みずみずしいスイカが描かれた静物画です。一つのスイカの切り口には、こう描かれています。

“VIVA LA VIDA!”(「人生万歳!」)

文/三城俊一(みきしゅんいち)

文筆家。1988年奈良県生まれ。学習塾講師や教材制作業の傍ら、歴史系ライターとして活動。著書に「なぜ、地形と地理がわかると現代史がこんなに面白くなるのか」(洋泉社新書)、「ニュースがわかる 図解東アジア史」(SBビジュアル新書)など。

イラスト/なとみ みわ

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