さ、三桁の人と…!? まさかの”規格外不倫”をした女帝の数奇な生涯とは【オンナ今昔物語1】

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教養豊かに育った女性に待っていた不幸な結婚生活


ロシアの女帝として有名なエカチェリーナ2世ですが、実はロシア人ではありません。彼女は1729年、ドイツの貴族の娘として生まれました。幼少期から英才教育を受け、教養豊かな女性に成長します。

1745年、16歳のエカチェリーナはロシアの皇太子ピョートルのもとに嫁ぎ、将来のロシア皇后となりました。エカチェリーナはロシア語を熱心に学び、ロシアの文化に溶け込む努力をしました。これは、後に彼女が即位した時、民衆の支持を得るのに役立ちました。

しかし、夫となったピョートルには問題が多く、夫婦は不仲でした。実はピョートルもドイツ生まれで、ロシア皇太子夫妻がともに国外出身だったのです。

当時のロシア女帝エリザヴェータには実子がなかったので、ピョートルは「ロシア皇室の血を引く」という理由で皇太子に据えられました。エカチェリーナと違ってピョートルにはロシアへの愛着がなく、妻とも「ドイツ語で会話できる」以上の共通項がありませんでした。

加えて、ピョートルには男性能力がなかったと考えられ、夫婦の関係が結ばれることはありませんでした。夫から愛情をかけられず、孤独に耐えられなくなったエカチェリーナは、魅力的な貴族の男性たちと、公然と関係を持つようになります。ピョートルの方も別の女性を寵愛しており、皇太子夫妻はもはや夫婦の体をなさなくなりました。

その後、エカチェリーナは長男パーヴェルなど数名の子供を出産します。いずれも父はピョートルではなく、それぞれ別の愛人だったと考えられています。

女帝「エカチェリーナ2世」の誕生


1761年の末に女帝エリザヴェータは亡くなり、皇太子はピョートル3世として即位しました。この頃、ロシアはオーストリア・フランスと同盟してプロイセン(現在のドイツの大元になった国)と戦っており、優勢に立っていました(七年戦争)。ところがピョートルは、「プロイセン国王を個人的に尊敬していた」という理由で、独断でプロイセンと講和。この独りよがりな政策は、内外の不興を買いました。

1762年、皇帝の失策に対し、皇后エカチェリーナを支持する軍がクーデターを起こします。主導したのは、エカチェリーナの愛人の一人、オルロフ伯爵でした。こうして、33歳の皇后は夫に代わり、エカチェリーナ2世として即位します。

皇帝ピョートル3世は廃位され、幽閉中に殺害されました。もっとも、エカチェリーナは夫の命を奪うつもりまではなく、彼女の重臣の独断だったようです。

ピョートル3世には、「知能の発達が遅れ、大人になってもおもちゃの兵隊や馬で遊んでいた」といった逸話があります。しかし、こういったピョートルを過度におとしめる逸話の多くは、エカチェリーナの時代、クーデターを正当化するために創作されたと考えられています。

とはいえ、エカチェリーナとピョートルの夫婦生活は正常さを欠き、極めて不幸な形で終わったことは確かです。このことは、女帝の私生活に大きな影を落としました。

皇帝としてのエカチェリーナは、国内の農民反乱を鎮圧したり、対外戦争で領土を拡大したりするなど、ロシア史上でも重要な君主の一人です。一方、美貌の若い男性を次々と愛人にし、寵愛を与えたことでも有名です。

その愛人の数は、公的なものだけで12人にものぼります(即位前に3人、即位後に9人)。確認のしようはありませんが、一晩のみのような関係も含めると、数百人にもなると言われています。愛人たちは女帝から豪華なプレゼントを贈られ、ぜいたくな暮らしを送りました。その中には、女帝の寵愛を背景に出世し、政治的権力を握る者もいましたが、たいていは女帝の愛が失われるとともに失脚していきました。

エカチェリーナの愛人たちの中で、最も数奇な運命をたどったのはスタニスワフ・ポニャトフスキでしょうか。彼はポーランドの貴族で、外交官としてロシア宮廷に出入りするうち、皇太子妃時代のエカチェリーナと恋仲になりました。

帰国後の1764年、スタニスワフは「ロシア女帝へのコネがある」という理由でポーランド国王に選ばれました。しかし、その後のポーランドはプロイセン・ロシア・オーストリアによって3回にわたり領土を分割されることになります。1795年、第3次の分割により、ポーランドは世界地図から消えました。エカチェリーナは、かつての愛人が治める国を滅ぼすのに加担したことになります。

エカチェリーナがやっと見つけた心の伴侶


治世の当初は、エカチェリーナが愛人を持つことを周囲も受け入れていました。しかし、老齢になっても変わらず美青年を寵愛する姿は、だんだん眉をひそめられるようになっていきます。「玉座の上の娼婦」という後世の評価が、彼女に対する世間のイメージを物語っています。

そんなエカチェリーナも、本当はお互いを敬愛できる伴侶を得たがっていたようです。グリゴリー・ポチョムキンという愛人にだけは、本当の夫婦のような愛情を注いでいたからです。

軍人だったポチョムキンは、長身でハンサムな好青年でした。それだけでなく、教養とユーモアがあり、人を笑わせるのが得意でした。44歳のエカチェリーナは、10歳年下のポチョムキンの魅力の虜となり、愛人としました。

ポチョムキンは、女帝の寵愛を背景に、異例のスピード出世を遂げました。彼は軍人・政治家としても有能で、オスマン帝国(トルコ)との戦争で功績を挙げています。ポチョムキンは公私を問わずエカチェリーナの支えとなり、肉体関係がなくなっても信頼は揺らぎませんでした。真偽は不明ですが、秘密裏に結婚式を挙げていたという話も伝わっています。

エカチェリーナがポチョムキンに宛てた手紙を読むと、二人がしばしば喧嘩をしていたことがわかります。女帝の手紙には弁解や懇願、恨み言なども書かれており、人間味あふれる姿を知ることができます。

1791年、ポチョムキンは女帝に先立って病死しました。訃報を受け取ったエカチェリーナは、「頼りにできる人は、もう一人も残っていません」と言って嘆き悲しんだといいます。数多い女帝の愛人たちの中でも、異例の扱いでした。

1796年、エカチェリーナ2世は67年の生涯を終えます。最晩年になっても、若い男性を寵愛することはやめませんでした。

強い女性の代表だった女帝の消えない孤独感


「多数の愛人を抱えていた」というと、「とんでもない女性」というイメージを抱くでしょう。しかし、状況に迫られて即位したエカチェリーナの立場も考えてみる必要があります。それまでのロシアの女帝は、みな未亡人ないし独身。エカチェリーナの立場上、再婚することは困難でした。家庭的な幸せに恵まれなかったエカチェリーナが、孤独を埋め合わせるように愛人を求めていたとも取れます。

愛人たちの中で、ポチョムキンだけは「生涯の伴侶」と言える存在でした。が、寝室を共にしなくなった後の時期は、ポチョムキン自身が公認する美青年を新しい愛人としてあてがっていたそうですから、女帝の愛情のいびつさは生涯治らなかったといえるでしょう。

ある伝記作家は、いつまでも若い愛人を求めた女帝の心理は「若さへの渇望」だと分析しています。エカチェリーナは16歳で異国に嫁ぎ、9年もの間愛のない結婚生活を強いられました。女性としての幸せを味わうことができないまま、若い時期を浪費した反動が、即位後に来たというわけです。

どんなに権力があっても、時間は巻き戻せません。「強い女性」の代表格として歴史に残っているエカチェリーナ2世ですが、消えない孤独感を内に秘めた、弱さもある女性だったのかもしれません。

文/三城俊一(みきしゅんいち)

文筆家。1988年奈良県生まれ。学習塾講師や教材制作業の傍ら、歴史系ライターとして活動。著書に「なぜ、地形と地理がわかると現代史がこんなに面白くなるのか」(洋泉社新書)、「ニュースがわかる 図解東アジア史」(SBビジュアル新書)など。

イラスト/なとみ みわ

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