小学生で介護者となった美齊津さんの壮絶な半生を描いた『48歳で認知症になった母』
『48歳で認知症になった母』のあらすじをご紹介します。
最初にお母さんに異変が生じた時、美齊津さんは小学5年生でした。近所のショッピングセンターに一緒に出かけた際、おもちゃ売り場を見るために離れて行動していた後、店内にお母さんの姿はなく、駐車場に車もなかったことから「お母さんに置いていかれた…」と感じたそうです。自力で家に戻ると、そこにはお母さんの姿が。
その後も鏡に向かってブツブツと話していることが増えたり、料理をしてボヤ騒ぎが起こったり…と次第に病状が進行していくお母さん。
料理だけではなく、日常生活にも支障が出てきます。朝起こすのを忘れたり、着替えや入浴をしなくなったり…。
その後徘徊が始まり、トイレの場所がわからなくなったのかゴミ箱に排泄したり洗面台に流したりするようになります。
美齊津さんの年の離れたお兄さんは遠方の大学へ進学、お姉さんは自分の家庭を持ち小さい子がいて、お母さんの面倒を見るのは必然的にまだ小学生だった美齊津さんの担当になったのでした。
「なぜこんなことに?」行き所のない気持ちを抱えながら、徘徊するお母さんを連れ戻しに行く日々。そんな自分とお母さんの姿をなるべく周囲には見られたくなかったそうです。
美齊津さんが高校生の頃、とうとうお母さんを自宅で介護することが難しくなり、お母さんの入院が決まります。その後、お母さんはもはや別人のようになってしまいました。
自分のお母さんがどんどん変わっていく…息子である自分のこともわからなくなっていく…どんなに辛かったことでしょう。胸が締め付けられるようです。
大好きなお母さんに起こった異変。ヤングケアラーとなったのは小学5年生
小学5年生から高校生まで、ヤングケアラーとして毎日を送っていた美齊津さんに当時のことを伺いました。
──大好きだったお母様を介護しながら変わっていく様を目の当たりにしなければならなかったのは非常に辛かったのではないかと想像します。
美齊津さん:特に辛かったのは徘徊している母の手をひいて家に帰る時、近所の人たちに陰で笑われているような気がして、うつむきながら隠れるように歩いたことですね。
──当時、美齊津さんの周囲に理解してくれる人はいたのでしょうか。
美齊津さん:母の事を学校の友人や先生にばれないようにしていましたね。いつも気を使って、気持ちがへとへとに疲れていました。
なぜかというと、当時は母が「おかしくなってしまった」と思われたら、どんな風に思われるのか全く想像がつかず、とにかく人に知られたら「私の生活は終わり」だと思っていました。だから、怪しいそぶりを見せないように学校では極力明るく振舞い、必死に平静を取り繕って生活していたのです。誰かに相談しようなどという発想はなく、むしろ相談した相手から母の事がばれてしまう可能性があると思い、誰にも心を開いていませんでした。
──ご自身の経験を『48歳で認知症になった母』として発表され、どのような反応が寄せられていますか?
美齊津さん:「壮絶でした」「読んでいて苦しくなりました」等の意見が多く、驚きました。私自身、自分の体験を「壮絶」と感じたことはなかったからです。私にとっては、この漫画の内容が私の人生そのものであって、私にとっては「壮絶」ではなく「日常」でした。だからとても驚きました。
他には、兄や姉、父への苦言が多くありました。「小さな弟に負担を押し付けて兄と姉と父は逃げた」という意見ですが、これはヤングケアラーが発生する経緯を考えれば少しは見方も変わるのではないかと思っています。
──お父様やご兄弟もいた中で、小学生だった美齊津さんがメインの介護者となった経緯について具体的にお教えいただけますでしょうか。
美齊津さん:家族の中で誰一人として苦しまなかった人はおらず、皆それぞれの事情を抱えて必死でした。
人は成長するにしたがって行わなければならないタスクが増えますよね。
特に中学生になる時に一気に勉強は難しくなり交友関係も複雑化していき自由な時間はなくなってきます。さらに高校生、大学生となっていくに従い、更にタスクは増えていき、成人したころには、多くの人はあまり余裕がなく忙しい生活を日々送るようになります。母が発病したのは、私が小学5年生、兄が高校2年生、姉は既に嫁いで子育て中、父は会社経営で多忙でした。
兄、姉、父が沢山のタスクに追われ生活していた中、一番時間があったのが小学生の私でした。この時母親の症状は比較的軽度だったこともあります。
決して私は周りの家族に押し付けられた訳ではなく、私がケアをすることが家族全員にとって一番良い方法だったから私が自発的に行っていただけなのです。この点はやはり当事者家族にしか分からないことなのかもしれません。
ヤングケアラーの経験が人生に与えた影響は…
若年性認知症を発症した母親をケアする「ヤングケアラー」となった美齊津さん。
当時はアルツハイマー病という病名やその症状もあまり世に知られておらず、ご本人も『これは夢に違いない』と考えるほど追いつめられていました。
──ヤングケアラーとしての経験は後の人生にどのような影響を与えたのでしょうか。
美齊津さん:母が亡くなった後、当時のつらかった出来事を忘れようと必死でした。でも、約10年ほどたった時、思わず母を突き飛ばしてしまった夢で毎晩うなされるようになりました。母に対する罪悪感からフラッシュバックが起きるようになったんです。
そのことがきっかけで、介護の仕事に転職しました。今はケアマネージャー17年目ですが、当時の私のように介護で苦しむ家族の力になりたいという思いで働いています。
ヤングケアラーは、ケアが終われば終了というものではなく、彼らが長年背負ってきた悲しみや怒りや自尊心の傷を克服することは容易ではありません。
また実際に失ってきた社会的なチャンスもその後の人生に大きな影響を与えます。だから、ヤングケアラーに対して少しでも理解のある寛容な社会になるように、私はこれからもヤングケアラーのことをもっと多くの人に知ってもらうため為の活動をしていきたいと思いますし、また同時にヤングケアラー自身に対しても、ケアの役割から解放された時には再び自分の足で歩き始められる強さを持って欲しいと思っています。
ヤングケアラーを孤立させないためにできることとは
──当時、周囲の理解もなかなか得られない様子が描かれていましたね。当時と比べて現在、「若年性認知症」「認知症」に対する制度や理解は進んでいると感じていらっしゃいますか?
美齊津さん:ええ、「認知症」への理解は大きく進んでいると思います。
地元で行われた認知症に関する講演会を聴講した際、そこでは多くの一般住民の方が自主的に認知症の症状について学び、患者への対応方法を学んでいました。こんなことは、自分が介護者だった当時では考えられない事です。
認知症は周りの人たちの対応によって、問題が小さくも大きくもなりますので、世の中に認知症に理解のある人が増えてほしいと願っています。
美齊津さんからのメッセージ
──「ヤングケアラー」という言葉を初めて知った時、そして知った今、どのように感じていますか?
美齊津さん:初めてこの言葉を聞いて調べてみたら、自分の子ども時代にぴったり当てはまるので驚きました。私のような境遇はレアケースで、世間から注目されることなどないし、誰からも理解されることなく、また私自身も誰にも語ることなど一生ないと思っていました。だからまさか、ヤングケアラーが注目される時代が来るなんて考えたこともありませんでした。自分を語る言葉ができたという意味では、世の中の人々に少しずつ認識され始めてきたような気がします。
ヤングケアラーは、その境遇から自尊心を失ってしまったり、進学や就職をあきらめざるを得なかったりと、様々な問題を抱えていることが多いのですが、『家族だから手伝うのは当たり前』とか『子どもの時の苦労は将来役に立つ』という認識の人も結構いて、問題の本質まで理解している人は、まだまだ少ないと思います。
──美齊津さんはヤングケアラーについて発信していらっしゃいます。美齊津さんの届けたい思いについてうかがえますでしょうか。
美齊津さん:私がヤングケアラーについて発信している理由は、ヤングケアラーの気持ちに共感してもらい、彼らに関心を向けて寄り添ってくれる大人を地域の中に1人でも増やしたいからです。
「子どもを孤立させないことが大切」という理解が地域に広がれば、それによって救われる子どもが増えると思っています。私は当時、誰にも悩みを話せず、自分の中でその悩みを増幅させてしまうことで 、非常にネガティブな人生観や社会観を持ってしまいましたから…。
ヤングケアラーに気づいて声をかけるような大人が地域に大勢いれば、自らSOSを発することが少ないヤングケアラーを早期に発見できますし、悩みを抱えて孤立してしまいがちなヤングケアラーにとって大きな心の支えになり、彼ら自身が再び歩みだすための力になると思っています。そのために私は、書籍や歌、講演会やコンサートなどの手段を使って、まずはヤングケアラーの実情や彼らの気持ちを多くの人に知ってもらいたいと思っています。
──周囲にヤングケアラーがいる、という方や、自身がヤングケアラーという方へのメッセージをお願いいたします。
美齊津さん:ヤングケアラーの皆さんへ伝えたいのは、「今は見えないかもしれないけど、世の中には君たちを支えたいと思っている大人が大勢いる」ということです。同じように家族のケアを頑張っている子どもも本当に大勢います。だから、本当に辛くなった時、もし周りに『この人なら相談してもいいかな』と思えるような大人がいたら、勇気を出して相談してみてほしいのです。
そして、将来ケアの役割から解放された時に、再び自分の足で前進していける強さを持ってほしいのです。そのためには、とにかく今この時を、すべてを諦めることなく希望を持ち続けてほしいと思います。
ヤングケアラーに関わる大人の方には、彼らの「味方」になってほしいということ。彼らがSOSを出すには、大きな勇気が必要です。だから話を傾聴して、彼らの頑張りを認めて欲しいのです。
そして「いつでも相談においで」と言ってあげてください。それだけで、彼らはどれだけ孤独から救われるか分かりません。
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ヤングケアラーだった頃、辛いと感じていたのは「周囲から孤立してしまったこと」だったと話してくださった美齊津さん。
自ら声をあげることができないでいるヤングケアラーたち。美齊津さんのように、彼ら自身も自分が壮絶な日々の中にいることに気付いていないという場合もあるかもしれません。また、私たちの周りにも、もしかしたら声があげられないでいるヤングケアラーがいるかもしれません。そんなヤングケアラーが少しでもSOSを出しやすい環境を作っていくことが大事なのですね。子どもたちに寄り添い、「味方」でいられるような大人でいたいと思います。
文=レタスクラブ編集部MM