母になっても、四十になっても、まだ「何者か」になりたい/夢みるかかとにご飯つぶ(1)

二児の母親が会社員を辞めてライターになった理由は…

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『夢みるかかとにご飯つぶ』1話【全5話】


母になっても、四十になっても、まだ「何者か」になりたいんだ。私に期待していたいんだ…。

「好書好日」(朝日新聞ブックサイト)の連載、「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」が話題となった、ライター・清繭子さんのエッセイ『夢みるかかとにご飯つぶ』(幻冬舎刊)。
何者かになりたいと願い、小説家を目指して試行錯誤する様子を赤裸々に綴った、心に沁みるエッセイです。
このエッセイから、今回は「夢みる頃をすぎまくっても」「子どもを産んだ人はいい小説が書けない」のエピソードをお届けします。

※本記事は清繭子著の書籍『夢みるかかとにご飯つぶ』(幻冬舎刊)から一部抜粋・編集しました。


はじめに 夢みる頃をすぎまくっても


いつも、何者かになりたかった。

ミュージシャンでも作家でも俳優でも、表舞台に立つ人の年齢をつい確認してしまう。

自分と同い年だったり、だいぶ下だったりすると焦燥感に駆られ、年上だと猶予を与えられたようでホッとした。新聞やワイドショーでわざわざ名前の後にカッコ付きで年齢が書いてあるのは、そういうニーズがあるからだと思ってた。映画のエンドロールに連なる名前を見て、こんなにたくさんの人がいるんだから、その中の一人くらいなら潜り込めるんじゃないかと考えたりもした。

大人になれば、こんな気持ちはなくなるんだろうと思ってた。だってべつに有名人になりたいわけじゃない。何かを成し遂げたいだけだ。誰かに選ばれたいだけだ。私には無限の可能性があって、きっともう少し年をとったら何か一つくらい実ることがあるだろう──。

でも、違った。

私は会社員になった。未婚から既婚になって、それから親になった。

親にはずっと、なりたかった。子どもを産んだとき、やわやわな、ほわほわな赤ん坊を抱きながら、この人生でやりたいことは済んだから、あとは余生だと本気で思った。

でも、違った。

授乳をしながら、寝かしつけをしながら、離乳食を作りながら、ママと呼ばれて「はぁい」といそいそ応えながら、私はまだ何者かになりたかった。

だいぶ大人になったのに、ヘンだな。

幸せなのに、ヘンだな。

本を読みたかった、映画を観たかった、静かな場所でひとりでじっくり考えたかった。

そして見つけたものを書きたかった。それをみんなに読ませて「いいじゃん」と言ってもらいたかった。その見つけたものに自分の名前を付けたかった。そうする力が自分にはあるかもしれない、って思いたかった。

この先もずっと、私は自分に期待したかったんだ。


もうすぐ四十歳になるというとき、会社を辞めた。ライターになって、「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」という連載を始めた。小説家になりたい、でもなれてない、そういう自分を明かしたうえで、自分より先に文芸の新人賞を獲ってデビューした人に悔しがりながら話を聞く。そして合間に小説を書いては応募している。

今日も私は電動自転車の前と後ろに子どもを乗せながら、頭の中で帰宅後のスケジュールを組み立てる。ご飯作って食べさせてお風呂入れて薬塗って寝かしつけて、それから保育園に提出する書類をやっつけて生協を注文してあれしてこれして、そのあと小説を書くんだって考える。

子どもが「きょうは『おしりたんてい』のつづきをよんで」と言うのでそれもスケジュールに組み込む。長めの話を読み聞かせすると、すっかり温まった布団から出るのが辛くなる。でも、書くんだ、と自分に誓う。

小説って言ったって、誰に頼まれたわけでもない、才能もあるかどうかわからない、睡眠時間を削ってやったってお金ももらえない、このまま続けてもなんにもならない可能性の方が高い。でも私の毎日には。
私ひとりの夢をみる時間があるんだ。

二児の母親が40歳を目前に会社員を辞めてライターになった理由は

「子どもを産んだ人はいい小説が書けない」


「子どもを産んだ人はいい小説が書けない」と言われたのだった。

あまりの衝撃で唖然(あぜん)としてしまった。ひとまず、公平にするためには発言の全容もあわせて伝えるべきだろう。

その人は「新人賞を獲るような小説は今は書けないのかもしれないね。別のやり方で小説を書くしかないのかもね」と付け加えた。理由は、「子どもという大事なものがすでにあるから、(小説と子どもという)二つのものを同時に極めるのは難しい」というようなことを言った。

「今じゃないのかもしれないね」気の毒そうに、少し愉快そうに、そう言った。

私には子どもがいて、そして、今、新人賞を獲るような小説を書けていないというのは事実だった。子どもがいることで、小説を書く時間が取れないのも事実だし、子どもがいることで人生に満足しており、自分は幸せだと思っており、欠落や葛藤が今はそんなにないというのも事実だった。

たとえば、子どもがいるけれど小説家になれない人生と、子どもがいないけれど小説家になれる人生、どちらを選ぶかと言われたら一瞬も迷うことなく前者を選ぶ。もう出会ってしまったのだから仕方ない。こんなに愛しく尊いものに。

自分の中の一番はもうあの子たちに定まっているから、小説家になりたいという気持ちも、小説しか私にはないというような切羽詰まった気持ちも、私はきっと、他の人より弱い。だからその人の言ったことは、私が自分でも思っていることでもあった。それでも、私は本当に驚いた。

──子どもを産んだ人はいい小説が書けない。

「いい小説」とはなんだろう。「新人賞を獲るような小説」とはなんだろう。もしそれが、本当にその人の言う通り、「子どもを産んだ人」や「小説より大切なものがある人」「自分の人生に満足している人」には書けないのだとしたら、「小説」というのはなんて小さな入れ物だろう。

ちがう。

私の知っている小説は、もっとおおらかで茶目っ気があって、圧倒的に自由だ。いつもこちらの想定を裏切って、この手をすり抜けて、今もほら、思わぬ方へ走り出していく。

私が今、いい小説を書けないのは子どもがいるからじゃなく、たんに私の技量の問題だ。誰しも頭の中にその人にしかない哲学を持っていて、子どもがいる人もいない人も、愛を知る人も飢えている人も、病気の人も健康な人も、みんな固有のそれを持っていて、その違いがひゅっと誰かを救ったりする。それを他の人が読めるかたちにするのが「小説」で、私にはそれをうまく小説にする技術がまだないというだけだ。それでも私には私だけの、哲学があり、物語があり、それは子どもを産んだことで損なわれるはずがない。

今日、私は子どもたちをインフルエンザの予防接種に連れていった。下の子は「ちゅうしゃやだ」と待合室で泣いて、それを上の子がぎゅっと抱きしめてなだめていた。そして上の子は自分が注射される番が来ると、すっと腕を出して針が刺されるその瞬間も顔色ひとつ変えなかった。さらに、自分が刺されるわけではないのに、また泣きそうになっている下の子に「ほーら、ぜんぜんいたくないし!」と言ったのだ。その虚勢がおかしくて、健気で。

寝かしつけのとき、いつもは下の子をとんとんするのだけれど、今日はねぎらいもあって上の子をとんとんしていた。

もう赤ちゃんではない、ぷにぷにもしていない体。

この子が生まれたばかりの頃、私はこの子が死ぬんじゃないかと心配で心配で不眠になって、不眠から軽度の産後うつになった。生後二か月でRSウイルスに感染し、入院したときは気が気でなかった。小さな腕に繋がれた点滴が痛ましくてならなかった。そんな子が、より小さい者のために、その腕を自ら差し出した。涙ひとつこぼさず、声ひとつあげず、なんでもない、と表情まで作って。

どうしてこんな善きひとが、私の人生にやってきてくれたのかわからない。しかも一人だけじゃなく、二人もきてくれたのだ。望外の幸せに打ち震える。神のようなものがやってくれたとしか思えない。

──かみさま

名前もわからぬその人に向かって私は祈る。

──かみさま、かみさま、どうか

このままこの善きひとたちと一緒にいさせてください

善きひとたちにとって、よいものであるように努めますから

だからどうか、一緒にいさせてください


そんなことを週二ペースで考えている。その他の雑事にまみれながら。

だから私はこの先、たぶん、きっと、いい小説を書くだろう。


私だけの、いい小説を書くだろう。

著=清繭子/『夢みるかかとにご飯つぶ』(幻冬舎刊)

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